侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

好き・嫌いの先の歴史観

歴史談義をする時に必ずつきまとう人物の好きと嫌い。人間、いちいちの事象に好き嫌いの感情があるのは仕方ないが、歴史を語る上でこれほど話の腰を折る面倒なものはない。

「家康が嫌い!」という言葉をよく聞く。それを聞くたびに「バカバカしい」と内心、呆れてしまう。確かに、同時代人の中で家康は嫌われる要素を多く有している。

1、成功者だから嫌い。

2、豊臣家をこれでもか!と滅ぼした。

3、信長や秀吉と比べて陰気で策謀家。

4、信長や秀吉の後ろにいて、努力もせずに天下を簒奪した卑怯者。

5、世界との交易を閉ざして内向的な江戸社会を創った。

6、司馬遼太郎作品の影響。

7、明治時代の徳川否定史観

8、関西以西に多い徳川への対抗心

こんなところだろうか・・・いずれにしても論破できる程度の話である。私はこの手の話になると、よく言う。

「家康が嫌いということは、あなたの歴史は安土桃山時代の次は、いきなり明治ですよね(笑)」

 いや、もっと言えば楠木正成がもてはやされ、足利尊氏が逆賊設定になった戦前史観と同じ不気味さを感じるのである。本来は、天皇を奉じた楠木には忠義があり、武士の不平不満を抱え込んだ尊氏には情勢不安や社会構造の現実と矛盾がある、と考察するのが歴史である。

時代転じて、薩長が正義で、幕府側は悪(その逆も然り)というのも学問上においては、もう少し相互の置かれた立場を理解すべきであろう。しかし、私自身の実体験として、会津では今でも幕末が人間関係の分水嶺になっている例もあるので、迂闊なことを言えない部分もある。

好き嫌いが先行すれば、それはもはや歴史ではなく、マンガである。司馬遼太郎は、確かに徳川家康乃木希典に対する辛辣な印象を著作に色濃く残した。しかし、彼の作品を読むことでその影響を何の疑いもなく受け取るならば、それは司馬遼太郎の史観や著作をさも持論のように語っているにすぎない。

かの武田鉄矢氏は言う。「オレは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のことなら誰よりも知っている」

なるほど彼が得意なのは、史実としての龍馬ではなく、フィクション込みの「竜馬がゆく」の竜馬である。だから、彼は熱が入り過ぎて「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画や「お〜い!竜馬」という漫画を生み出した。

ところが、そんな武田鉄矢氏に司馬遼太郎は言い放った。「いつまでも竜馬、竜馬ではない!」

この言葉の意味するところを理解できたから、武田氏にはその後の役者としての活躍があったのだろう、と私は思う。

私も司馬遼太郎という小説家を敬愛してやまないが、彼の作品についてはさまざまな小説の中の一つの選択肢程度に読むことをオススメする。 

俗に司馬史観と呼ばれる彼の史観が悪いのではなく、彼の世界観に引き込まれるあまり、自身で思考することなく、それを歴史そのものと勘違いすることが問題なのである。f:id:shinsaku1234t501:20240223015830p:image

万喜城(千葉県いすみ市)

千葉県いすみ市万木字城山 万木城跡公園

万喜城遠望f:id:shinsaku1234t501:20170310162307j:image山麓にある機岳山海雄寺(左が土岐為頼墓、右が万木土岐家代々供養塔)f:id:shinsaku1234t501:20170310153613j:image万木土岐氏系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説を紹介する。海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年(1492)没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年(1583)没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年となる。親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年(1580)没とある。やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明である。よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

万喜城展望台f:id:shinsaku1234t501:20170310153533j:image余談だが、為頼の嫡子、三代城主の頼春の頃にあたる天正17年(1589)11月、里見軍の大多喜城主、正木時茂が包囲した際、土岐軍の騎馬隊長として20名程度を率いた御子神典膳(のちの小野忠明)が互角に渡り合った。後日、その武勇を聞きつけた一刀流の開祖、伊東一刀斎が万喜城下に出向き、典膳と立ち合う。敗れた典膳は一刀斎に師事し、のち一刀流の後継者として小野派一刀流開祖となり、徳川秀忠の剣術指南役となるのは有名な話である。

千葉県成田市寺台 保目山永興寺墓地 小野忠明f:id:shinsaku1234t501:20170310172136j:image話を戻すが、天正17年(1589)、庁南城の武田豊信・安房の里見義頼、大多喜の正木時茂などを相次いで撃退してきた万喜城も、翌年の小田原征伐の一環として来襲した本多忠勝に攻略され落城となる。三代城主、頼春の消息は不明である。翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

万喜城主郭の土塁f:id:shinsaku1234t501:20170310153708j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223014747p:image

真武根陣屋(千葉県木更津市)

千葉県木更津市請西

真武根陣屋址碑f:id:shinsaku1234t501:20200503233026j:image真武根陣屋こと請西藩陣屋は幕末好きにはおなじみの場所である。

信濃守護である小笠原清宗の子、林光政は足利持氏に仕えたのち、林郷(長野県松本市里山辺)で隠棲していた頃に松平有親・親氏と出会った縁で三河野田に移住して松平家に出仕した。即ち、松平家から徳川家康に歴仕したのである。

7代当主の吉忠は大坂夏の陣に際し、秀忠麾下の大番頭、高木正次隊に属して明石全登との戦闘で戦死する。
この武功もあって三河以来の譜代旗本として連綿と続き、忠英の頃には将軍家斉のもとで若年寄に栄進、上総貝淵藩1万8千石の大名となる。

嘉永3年(1850)、忠英の嫡男忠旭が現在地に陣屋を移したことで上総請西藩となる。慶応3年(1867)、伏見奉行の忠交が急死すると、嫡男の忠弘が若年であることから甥の忠崇が藩主に就任する。

慶応4年(1868)、江戸を脱出した人見勝太郎・伊庭八郎ら旧幕府遊撃隊に協力を要請された忠崇は真武根陣屋に火を放ち、一部の藩士とともに遊撃隊に参加する。藩主自らが脱藩したことで請西藩は新政府により改易となった。

東京都中野区沼袋2丁目 永康山東正院貞源寺 伊庭八郎墓f:id:shinsaku1234t501:20170310153907j:image真武根陣屋空堀f:id:shinsaku1234t501:20170310152556j:image
その後、徳川宗家存続の報に接した忠崇は仙台で新政府軍に降伏し、江戸に護送されると肥前唐津藩邸に幽閉される。

なお、その後半生は前代未聞と言っていい。明治5年(1872)に赦免されると請西村に戻って農家に間借りして農民となる。翌年には東京府十等属という下級官吏に転身するが、明治8年(1875)には退職する。心機一転、函館に赴き、とある商店の番頭を務めるが、倒産により職を失う。その後も、職を転々として宮内省東宮職庶務課に勤務したり、日光東照宮では神職も務めた。

昭和12年(1937)に浅野長勲(元安芸広島藩主)が没すると、生存する最後の大名と呼ばれ、昭和16年(1941)、次女に看取られて死去する。

中村彰彦「脱藩大名の戊辰戦争」に詳しい。

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和田城 後編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

土塁は幼稚園の園舎に沿って続く。
土塁上部f:id:shinsaku1234t501:20170920185116j:image下に降りてみても、その高さは明らかに2mを超すだろう。
幼稚園敷地内から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170920183903j:imageさらに、幼稚園の裏の住宅地から見ると、随分と高い垣根にしか見えない。実は、幼稚園の内と外では高低差があるため、敷地内の土塁の高さは2m強だが、低くなっている裏手の住宅地から見ると、その倍近く高く見える。
幼稚園裏手の住宅地から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170920185009j:imageまた、土塁の中に無造作に置いてあるかのような祠の側面には「北條◻︎氏」と刻まれている。

土塁の中にある「◻︎◻︎社」の祠f:id:shinsaku1234t501:20170920185219j:image
最後に、近くの勝蔵院にも和田義盛巴御前・朝比奈義秀を祀る和田塚があり、近在には和田義盛の家臣の末裔と伝わる家もあるという。(完)

我孫子市布佐 西光山勝蔵院 和田塚f:id:shinsaku1234t501:20170920190133j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223014147p:image

和田城 前編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

幼稚園敷地内にある土塁f:id:shinsaku1234t501:20170620235737j:imageネット検索しても十中八九、「遺構は消滅」とされているが、ある1件のサイトだけが写真入りでこの遺構を紹介していた。場所はわだ幼稚園の敷地内、園舎の裏にある土塁である。

幼稚園入口付近から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170620235807j:image見学を申し込むと快諾をいただき、早速、送迎バス車庫の裏にある土塁の石段を登る。

土塁の石段 f:id:shinsaku1234t501:20170305222452j:image土塁の上に到着すると、稲荷神社の祠と宝篋印塔などの墓石群がある。

土塁の頂上部 f:id:shinsaku1234t501:20170305222620j:image稲荷社の祠f:id:shinsaku1234t501:20170311213952j:image墓石群(左は伝 和田義盛墓・中央は明應九年板碑)f:id:shinsaku1234t501:20170311214158j:image墓石群の最前列左にある和田義盛墓と伝わる宝篋印塔には、和田氏を表す梵字が刻まれている。また、中央の板碑には「明應九年」(1500年)の銘がある。和田義盛とは全く年代が合わない室町中期にあたるが、実はこれより7年前の延徳5年(1493)に、この城で合戦があり、城主 豊島次郎左衛門ほか諸人が討死にした、と「本土寺過去帳」に記載がある。豊島氏ということは、ここからほどなくの栄橋を渡った利根川の対岸、茨城県北相馬郡利根町の布川城主の一族が勢力拡大を図ったものと推察される。

また、天正元年(1573)、北条氏堯・氏照ら6,000余の軍勢が我孫子周辺に侵攻すると、時の城主 豊島半之允は芝原城主の河村山城守、柴崎城主の荒木三河守らと連合して2,000余の軍勢で迎撃したが敗れる。この戦いで北条軍は我孫子連合軍の首級270余りを討ち取ったという。

さらに、天正13年(1585)田部主水が城主の時、豊島頼継(下総布川城主)・栗林義長らに攻められたという説もある。

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金ヶ作陣屋(千葉県松戸市)

千葉県松戸市常盤平陣屋前

金ヶ作陣屋跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170516023613j:image慶長19年(1614)に綿貫政家が家康より野馬奉行を拝命し世襲していることから、江戸初期に小金牧の原型が存在したことは明らかである。
江戸にほど近い地域における馬の生産地として、幕府が直轄してきた歴史がある。

松戸市殿平賀 熊耳山慶林寺 綿貫政家夫妻墓f:id:shinsaku1234t501:20170515000347j:image往年の時代劇「暴れん坊将軍」のオープニングで、徳川吉宗が波打ち際で馬を駆るシーンが印象的だが、まさにその吉宗が名馬育成のために小金牧を整備したのは興味深い。

松戸市五香6丁目 五香十字路付近 野馬除土手f:id:shinsaku1234t501:20190903140303j:imageそこで、幕府代官に任命された小宮山昌世は、辻守誠の四男で小宮山昌言の養子となった人物である。
小宮山氏といえば、戦国期に小金高城氏の家臣に小宮山土佐守という人物がいたことから地元出身とも考えられるが、小宮山昌○の名乗りであること、また昌世がその後、甲斐石和代官を歴任した事実を総合すると、武田遺臣の末裔の可能性は高い。

一方、享保の改革の一環として、現在の船橋市松戸市周辺の新田開発が推進された。松戸市内に残る高塚新田・田中新田・松戸新田・串崎新田などの地名は、吉宗の時代より前からすでに開発が始まっていたものもあるが、江戸時代を通じて幾度かの開発を経て現在に至る。

以上の重要拠点となったのが、金ヶ作陣屋こと常盤平陣屋である。

松戸市五香6丁目 五香十字路付近 野馬除土手f:id:shinsaku1234t501:20190903140435j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013819p:image

浄真寺(茨城県土浦市)

茨城県土浦市立田町3丁目 光照山浄真寺

藤井松平信一供養塔(浄真院弁誉道雄専水大居士)f:id:shinsaku1234t501:20170226151303j:image十八松平の一つ、藤井松平家出身である。藤井松平利長の嫡男で一貫して徳川家康の家臣を貫く。ちなみに、家康の祖父清康とは従兄弟にあたるが、年齢的には家康より4歳だけ年長にあたる。

永禄元年(1558)、尾張品野城合戦で織田勢50名あまりを討ち取る。また、三河一向一揆では左股を鉄砲で撃たれて負傷するも奮戦した。

特に有名なのは、家康の命で織田信長の援軍として派遣された永禄11年(1568)の観音寺城合戦において六角義賢・義治らの籠る近江箕作城に一番槍を果たしたことであろう。信長の覚えめでたき武将でもある。また、この出陣に際して家康から拝領した具足は木菟(みみずく)をモチーフとした変わり兜として有名である。

「八月、織田信長、西のかた近江を略し、来つて援兵を乞ふ。大夫、松平信一をして、二千余人を以て往かしむ。信長の将木下秀吉ら、箕作城を攻む。城固くして抜けず。信一疾く攻め、矢石を冒して進み、大に呼んで曰く、「三河の人松平信一、先登せり」と。諸隊継ぎ登る。城遂に陥る。信長、面のあたり信一を褒めて曰く、「卿、胆に毛を生ずと謂ふべし」と。桐号の胴服を賜ふ。」(日本外史

その後も家康の主要な合戦に従軍し、関東移封に際しては下総布川5千石を賜る。関ヶ原合戦では佐竹義宣を牽制すべく常陸江戸崎城を守備し、その功により常陸土浦3万5千石を賜る。

慶長9年(1604)、養子の信吉に家督を譲り、寛永元年(1624)、信吉の封地である丹波篠山にて没す。

光照山浄真寺という寺号は、光照院(信吉)と浄真院(信一)の法号に由来する。もっとも、本墓は京都府京都市上京区西熊町 称念寺である。

三河松平家の苦難の時代から家康を支え続けた武功派の印象を感じる。また、関ヶ原合戦後に佐竹氏を除封した常陸方面は治安が不安定な部分もあったので橋頭堡的な役割を担ったのであろう。

浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151424j:image浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151547j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013911p:image