侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

今川粛清録 その2

まず粛清1つ目の例は戸部新左衛門政直である。富部神社(とべじんじゃ)にある戸部城趾碑によれば下記の通りである。

「戸部新左衛門諱政直今川義元之臣也 築城於尾州戸部為人精忠恩私為君家盡力 當時織田信長以不世出之略夙有樹旗於京畿之志而今川氏虎踞東海有 忠臣如公者善援之常挫織田氏鋭鋒 信長患之放反門於今川氏作偽書譖其通款 義元信之遂殺公矣 爾来星霜幾百城趾歸畑減郷人乃相議劃地建碑永表其趾」

元は織田信秀の被官であったが、信秀の死とともに駿河今川義元に属したという。長らく織田信秀尾張三河で争っていた今川義元からすれば、尾張領内に楔を打ち込むが如く橋頭堡の戸部城(笠寺城)を守る戸部政直は、よほど信に足る人物だったに違いない。義元の妹婿になったと伝わるが、比定できる女性は見当たらない。

愛知県名古屋市南区呼続4丁目 富部神社 戸部城趾碑(左端)・戸部新左衞門政直靈位碑(中央)f:id:shinsaku1234t501:20190808114137j:image天文18年(1549)11月の安祥城合戦で安祥城主 織田信広が今川方の捕虜となった際、まだ織田方に属していた政直が、今川義元にその助命嘆願を掛け合ったとされる。その後、今川方に囚われた信広と織田方の人質である松平竹千代(のちの徳川家康)の人質交換がおこなわれたのは言うまでもない。

果たして、これは何を意味するのか。当時、織田の家臣である政直が信広の助命嘆願をするのは、なるほど忠義と言える。しかし、信秀の死後、政直が一転して今川義元に寝返るという結果から遡れば、この助命嘆願の際に義元との間にのちに繋がる何かしらの約束を取り付けたと考えることもできるのではないか。その結果がのちの今川への寝返りのみならず、義元の妹婿という立場だと見ることもできる。もしも、そこまでの見返りを計算したとすれば相当の策士と言える。

また、人質交換の場所が政直の居城 戸部城の目と鼻の先にある笠覆寺(通称 笠寺観音)であったことを考えると、今川・織田双方の違約行為がおこなわれないことを保証できる場所であり、戸部政直が両家に通じているがゆえに仲介に適した人物だったことが理解できる。ともあれ、織田信秀の家臣でありながら今川義元と交渉できる立場にある人物だったことは間違いない。

愛知県名古屋市南区笠寺町上新町 天林山笠覆寺f:id:shinsaku1234t501:20190808113825j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223024932p:image

今川粛清録 その1

平成29年NHK大河ドラマおんな城主 直虎」を観てふと思ったことがある。

駿河今川家には家臣に謀反の嫌疑が生じると、本人に駿府への出頭を命じ、取り囲んで死に追いやるという独特の粛清方法が幾つかの事例として存在するのである。

これはあくまでも推測でしかないが、討伐と堂々発表して攻め寄せれば、相手にも軍備を整える時間を与えることになり、下手をすれば長期戦になりかねない。長引けば情報が露見する怖れが生じる。また、幕下から裏切り者が出ないとも限らない。何よりも兵が疲弊する。

その点、何かしらの理由をつけて駿府に出頭を命じれば相手はよほど有効な口実でもない限り断ることはできない。その場合、供回り程度の手勢で向かうはずだから討ち取るのは容易い。また、道中で襲撃した場合は野盗や一揆の仕業と言い繕うこともできる。必要なのは周到な用意と実行時の瞬発力である。永禄元年(1558)、織田信長実弟信成(信行・信勝・達成)を清州城に招き入れて殺害したのも同様の例と言えるだろう。

さらに、こうして疑いのある個人さえ害すれば、残された一族は別の当主を仕立てるなり、自ら事態の沈静化を図るケースが多い。あくまでも一個人が謀反を企図したのであって、家や一族は関係ないという形にして、殊更に忠勤を示すのがパターンである。

そして何よりも、内乱を発生させないことは隣国に付け入る隙を与えずに済む。というのは、当時の駿河今川家を囲む環境に起因する。長年の宿敵である織田家を念頭に置きつつも、背後には甲斐の武田信玄・相模の北条氏康が控えている。甲相駿三国同盟で繋がってはいるものの、隙を見せるのは得策ではない。万が一、領国内で謀反人が挙兵すれば討伐軍を差し向ける大義名分が成立するが、これを見事鎮圧しないと隣国から内政・軍事双方の力量を疑われることにもなりかねない。

今川家は室町時代を通して駿河守護職に補任されているが、同じく守護職とはいえ遠江については侵略・調略などを駆使して手に入れた経緯もあり、国人の掌握にはいささか不安定要素がある。

同じく三河については尾張織田家と隣接している手前、国人の去就はなお複雑である。岡崎城松平家は一貫して今川方であったが、松平一族の中には織田家に心を寄せる者もあった。刈谷の水野家や東三河の戸田家にしても家中の分裂は常だった。

そこで、ここに今川義元・氏真父子による家臣粛清劇を列挙し、その背景と影響を考察したい。

愛知県名古屋市緑区桶狭間 和光山天沢院長福寺 今川義元f:id:shinsaku1234t501:20210314001246j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226102339p:image

小牧長久手戦跡 青塚砦(愛知県犬山市)

愛知県犬山市青塚

尾張国の二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)の祭神 大荒田命(おおあらたのみこと)の墓とされる古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳である。

その墳丘の全長は123メートル、後円部の高さは12メートルの規模を誇り、愛知県では断夫山古墳(名古屋市熱田区旗屋町)に次ぐ第2位に位置する。また、この周辺地域には10数基の古墳が点在し、「青塚古墳群」を形成している。

愛知県犬山市青塚 青塚古墳史跡公園 青塚古墳(青塚砦址)f:id:shinsaku1234t501:20210213221123j:imageなお、この古墳は別名「茶臼山古墳」とも、「青塚砦」とも称される。なぜ砦なのか。

天正12年(1584)3月17日、この地より北方にある羽黒八幡林周辺に布陣していた羽柴秀吉軍の先鋒部隊(尾藤知宣・森長可ら)を徳川家康軍の酒井忠次榊原康政・奥平信昌らが急襲した。この詳細については拙稿「小牧長久手戦跡 野呂塚」をご参照いただきたい。

同27日、さらに北方にある犬山城に入城した羽柴秀吉は、織田信雄徳川家康らの籠る小牧山城に対して東から北に半円形を描く形で諸砦の構築を命じる。東の二重堀砦から青塚古墳にかけての一帯である。おそらくこの前後に秀吉自ら青塚古墳に布陣して、平城として修築したのが青塚砦となる。

その後、膠着状態を打破すべく池田恒興森長可らが行動を起こしたのが4月6日夜のことであった。俗に言う「三河中入り作戦」の決行である。秀吉の犬山入城前に羽黒八幡林合戦で大敗を喫した長可としては、三河岡崎城を攻略して、なんとしても徳川家康に一矢報いたいところでもある。これが森長可の最期となる4月9日の長久手合戦の始まりであり、出陣まで守将を務めていたのが、この砦である。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226102441p:image

私論「下剋上・下克上」その5

翻って言えば、幕末における討幕運動の核となった長州・土佐・肥前などの雄藩は、関ヶ原合戦直後こそ減封や転封を経験しているが、江戸時代を通じて転封することなく領地との繋がりを育んだ結果、幕末には藩を挙げての兵力動員を実現することになる。

本来、幕府を絶対的権力(上位)とするならば薩摩や長州など(下位)の挙兵は下剋上・下克上」と非難されるべきである。しかし、朝廷の権威を利用して世論を巻き込むほどの大勢力になることで、本来下剋上・下克上」と解釈すべき一点は「維新」という耳障りの良い言葉に化したと言える。さらに、朝廷(錦旗)を押し立てることで、これに抗おうとする旧幕府勢力こそ朝廷に対する下剋上・下克上」を目論んでいると認識させるプロパガンダに成功した。

後世の我々は、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争鳥羽伏見の戦いから翌年の箱館戦争終結に至るまで、どうしても戦闘の描写で追いかけてしまう。そのほうが時局がわかりやすいからである。しかし、幕末維新の思想面の複雑さにこそ本質がある。

例えば、長州藩であれば吉田松陰の主張するところは当時において凡そ受け入れられる内容ではなく、その後の藩内抗争の結果として討幕に辿り着いたに過ぎない。土佐藩筑前福岡藩なども幕府への遠慮から勤王党の粛清をおこないながら、最終的には新政府軍に合流する。会津藩越後長岡藩とて必ずしも藩論がまとまっていたわけではない。

幕府の凋落は時の流れとはいえ、弓を引くのは下剋上・下克上」であるという倫理観を奉じる武士層は一定数いたはずである。いや、どの藩においてもその考え方こそ、むしろスタンダードだったかもしれない。幕府(公儀)との共存共栄で現状維持を望む派(主に特権階級や上級武士層)と討幕による社会変革を唱える派(主に下級武士層)の対立軸はどの藩にも少なからず存在したはずである。こうした中で戊辰戦争勃発後に発生した尾張名古屋藩の「青松葉事件」などは藩内抗争を藩主の直裁で無理矢理に決着させた最も凄惨な例と言えよう。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城 青松葉事件碑f:id:shinsaku1234t501:20210103233302j:image尊王思想の強い水戸徳川家出身である徳川慶喜が朝廷への下剋上・下克上」と思われるのを嫌って謹慎に徹したのも無理からぬことであり、朝廷を手中に収めて幕府への下剋上・下克上」を目論む新政府軍、その下剋上・下克上」に立ち向かおうとする会津藩榎本武揚ら旧幕府勢力が存在したのも当然である。

さらに、その新政府軍の中心人物であった西郷隆盛明治10年(1877)に引き起こした西南戦争は、明治政府との戦闘行為にまで発展しているにも関わらず、「乱」とは表記されない。あくまでも「戦役(戦争)」と表現される。もちろん、下剋上・下克上」とも言わない。しかし、その後の西郷はご存知の通り逆賊扱いだったはずである。明らかに社会秩序に対して反逆行為をおこなったからこそ逆賊と呼ばれながら、その行為自体が下剋上・下克上」と表現されない理由は、西郷軍が敗退したためか。単に西郷軍が政府軍に負けたから下剋上・下克上」が成立していないという論法なのだろうか。

以上、下剋上・下克上」にこだわって考察してみたが、どちらに視点を置くかによって解釈が大いに変わることを附す。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103048p:image

 

私論「下剋上・下克上」その4

せっかくだから、江戸幕府を開いた徳川家康源頼朝足利尊氏らと比較してみたい。

確かに、三河における松平氏はそこそこ有力な家柄とは言えるが、その出自も明らかではなく、所詮は土豪の集合体における盟主程度であった。さらに今川家を奉ずる勢力と織田家を奉ずる勢力の拮抗する微妙なバランスの上で岡崎松平家は成立していた。そんな家康が人質生活まで味わいながら今川家、織田家や豊臣家と渡り合って全国区になるまでには幾つもの山坂があったのは言うまでもない。決して最初から中央に躍り出るほどのアドバンテージを有していたわけではない。

静岡県浜松市中区元城町 元城町東照宮 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20201114220034j:imageまた、政治手腕に関しては南光坊天海や林羅山本多正信・大久保忠隣など綺羅星の如きブレーンが存在したにせよ、彼個人がかなり能動的に独裁政治を展開したのは特筆すべきであろう。この点については、有力御家人に神輿の如く推戴されることで盟主として制限を受けざるを得なかった頼朝、南朝勢力や守護大名の台頭に悩まされ続けた尊氏とは明らかに違う。

また、御恩と奉公のバランスで言っても江戸時代を通じて徳川家の譜代家臣はどちらかと言えば高い石高を以って遇されてはいない。にもかかわらず不平不満による下剋上・下克上」は全くと言っていいほど発生していない。これは江戸幕府の支配体制、裏を返せば譜代家臣の従属体制が極めて秩序的であったことを裏付ける。簡単に言うならば、手っ取り早い出世の手段である戦乱が無くなった分、役職や石高の世襲が約束されることで、基礎的な身分が保障されていたことが大きい。

また、家康の六男である長沢松平忠輝のような改易の事例もあるが、基本的には一族や譜代家臣を温存しつつ、なおかつ彼らを核とした支配体制を全国的に確立した。これは、鎌倉幕府室町幕府のような不安定要素を内在した社会を創らなかったと言える。なぜなら、鎌倉幕府の政治機関である「侍所」・「政所」・「問注所」と言うのは、いずれも武士層を対象としたものであり、決して庶民に対応したものではない。これは室町幕府とて同じである。それらに比べ、江戸幕府は全国的な支配体制を以って朝廷・寺社から百姓・町人に至るまで遍く支配・取締の対象としたのである。反乱が起きにくいのは当然である。

他方、有力な外様大名に対しては懐柔策を以って反逆の隙を与えなかった。具体的には譜代大名よりも多くの石高や松平姓を授けることで一門に準ずる厚遇を約束するなどの方法である。「敬して遠ざける」とはこのことであろう。その逆に支配体制を維持するためには、失政などを理由とした改易や転封など手練手管を駆使した事実も否めない。f:id:shinsaku1234t501:20230226103136p:image

私論「下剋上・下克上」その3

南北朝時代の政情不安の中で成立した室町幕府は、成立当初から守護大名の圧力を受け続けた。強烈なまでの独裁で君臨した3代将軍の足利義満がいる一方で、6代将軍の足利義教管領にして「半将軍」の名を恣にした細川政元でさえ下剋上・下克上」に斃れた。さらに13代将軍職の足利義輝に至っては、三好長逸・三好義継・三好宗謂・岩成友通・松永久通らに取り囲まれた中で惨殺される。(「永禄の変」)

京都府北区等持院北町 萬年山等持院 足利義教f:id:shinsaku1234t501:20201011180348j:imageまた、下剋上・下克上」は地方においても頻発する。

⚫️毛利元就武田元繁(安芸守護)を討った「有田中井手合戦」

⚫️和睦を一方的に破棄した龍造寺隆信が勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込む。

⚫️長宗我部元親一条兼定土佐国司)を追放する。

⚫️周防・長門・石見・安芸・豊前筑前の守護である大内義隆下剋上・下克上」を仕掛けた陶晴賢の「大寧寺の変

⚫️土岐頼芸(美濃守護)に下剋上・下克上」を仕掛けて追放した斎藤道三が、後継者の斎藤義龍による下剋上・下克上」に敗れた「長良川の戦い」

岐阜県岐阜市 金華山より見た長良川f:id:shinsaku1234t501:20201011183436j:image織田信長が本能寺で散る羽目になり、豊臣秀吉が独裁政治を確立したかのように見えたが、その死後、直接の御恩を蒙ったはずの家臣の多くは徳川家にシフトした。

拙稿「豊臣家臣団」でも触れた通り、関ヶ原合戦で豊臣家を背負ったはずの西軍が、豊臣家から徳川家にシフトした豊臣家臣団によって敗れるという奇妙な結果がある。その後の大坂の陣も含め、徳川家康には豊臣家の旧臣を以って豊臣家を制するという、さながら業師のような老獪さが見てとれる。

この豊臣家滅亡劇は本来、戦国時代に当たり前のようにおこなわれたライバル潰しの一つと見るべきだと思うが、例えば信長が足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした件や明智光秀が信長・信忠父子を殺害した件がどこか当然の流れのように解釈されるのに比べると、豊臣家を潰した家康が一方的に悪役を買う偏向的な史観で語られることが多い。

その根拠の一つとして、家康が豊臣秀頼という主筋に下剋上・下克上」を仕掛けたとする見方が存在するからだろう。まず、それを言うならば、豊臣秀吉が信長亡き後の織田家を盛り立てるどころか、勢力弱体化に追いやったことこそ主筋に対する下剋上・下克上」と言うべきではなかろうか。

そして、当時の秀頼と家康の力関係を以ってして厳密に主従関係と言えるかどうか、この解釈によって見方は分かれる。「下位の者が、上位の者の地位や権力をおかす」のが下剋上・下克上」と定義付けされるのであれば、家康が下位で、秀頼が上位という明確な証拠を要する。ただ、この点に関しては史実の直視よりも多分に豊臣贔屓の心理が強く作用することも否めない。

ともかくも、徳川家康が絶対的君主として朝廷・公家・武家・寺社に至るまで統制する形で君臨することになる。f:id:shinsaku1234t501:20230226103228p:image

私論「下剋上・下克上」その2

⚫️平清盛後醍醐天皇のように自身が政治をおこなうスタイルではなく、側近による政治機構を確立した。頼朝を始め鎌倉将軍家による独裁が思うように許されなかった反面、ブレーンによる権力掌握が活発化したと言える。有力御家人による合議制と言えば聞こえはいいが、それは勢力の均衡が保たれている場合の話であって、破綻した時には討伐される。「侍所」・「政所」・「問注所」などの統治機構室町幕府にも引き継がれる一方、守護は地方における勢力拡大を図り、のちに幕府の屋台骨を揺るがしていく。

⚫️盟主としての権力や崇敬を集めるのはあくまでも頼朝や尊氏本人のみであり、その兄弟・親族だからといって特別な立場を有することは許されなかった。それゆえに一族の粛清でかえって自家の勢力弱体を演じてしまった。頼朝は御家人との勢力バランスの中で義経・範頼など兄弟を誅殺し、尊氏も腹心の高師直を失う一方で、実弟の直義を殺害したという説がある。

⚫️「御恩と奉公」に代表されるように、忠義と報酬のバランスで繋がる営利的な主従関係を推進する結果となり、これが下剋上・下克上」の風潮へと発展していくことになった。「奉公」とは盲目的な従属を意味するように思いがちだが、実は「御恩」あってこその見返り行為に他ならない。御恩が納得いくものでなければ奉公は滞る。また、幕府の権威が弱いと判断されれば、中央・地方問わず勢力拡大や実権掌握が平然とおこなわれた。「広辞苑」にあるように下位の者が上位の者の地位や権力をおかす風潮の高まりである。

俗に下剋上・下克上」は、南北朝時代応仁の乱に象徴される歴史用語と広く解釈されがちだが、むしろ中世を通じて鎌倉幕府室町幕府ともに将軍職は傀儡君主の側面があってこそ成立していた感がある。鎌倉幕府において三代将軍実朝が横死した後の公家将軍・宮将軍などはまさにそうであった。実際、幕府の都合で将軍が失脚させられる事態さえも発生している。しかし、源氏将軍を否定したわけではなく、あくまでも幕府の支配体制を継承しつつ実権を掌握していったせいか、執権北条氏を将軍職に対する下剋上・下克上」とは言わない。

確かに頼朝没後、御家人の主導権争いから北条氏が抜きん出たとは言うものの、その北条得宗家もまた同じ北条一族や他の御家人から足元をすくわれそうな危機を何度も経験している。のみならず、得宗家の被官である平頼綱は乱を起こし、長崎高綱は内管領として得宗家を凌ぐ権力を握ることになる。これも下剋上・下克上」と解釈できよう。

そういった意味では、鎌倉時代以前に全国的な権力基盤を維持した絶対的君主と言える最後の人物は平清盛であり、彼に下剋上・下克上」を挑んだのが源頼朝という言い方ができるだろうと考える。

神奈川県鎌倉市扇ガ谷 源氏山公園 源頼朝f:id:shinsaku1234t501:20200906155801j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226103324p:image