侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

小牧長久手戦跡 青塚砦(愛知県犬山市)

愛知県犬山市青塚

尾張国の二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)の祭神 大荒田命(おおあらたのみこと)の墓とされる古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳である。

その墳丘の全長は123メートル、後円部の高さは12メートルの規模を誇り、愛知県では断夫山古墳(名古屋市熱田区旗屋町)に次ぐ第2位に位置する。また、この周辺地域には10数基の古墳が点在し、「青塚古墳群」を形成している。

愛知県犬山市青塚 青塚古墳史跡公園 青塚古墳(青塚砦址)f:id:shinsaku1234t501:20210213221123j:imageなお、この古墳は別名「茶臼山古墳」とも、「青塚砦」とも称される。なぜ砦なのか。

天正12年(1584)3月17日、この地より北方にある羽黒八幡林周辺に布陣していた羽柴秀吉軍の先鋒部隊(尾藤知宣・森長可ら)を徳川家康軍の酒井忠次榊原康政・奥平信昌らが急襲した。この詳細については拙稿「小牧長久手戦跡 野呂塚」をご参照いただきたい。

同27日、さらに北方にある犬山城に入城した羽柴秀吉は、織田信雄徳川家康らの籠る小牧山城に対して東から北に半円形を描く形で諸砦の構築を命じる。東の二重堀砦から青塚古墳にかけての一帯である。おそらくこの前後に秀吉自ら青塚古墳に布陣して、平城として修築したのが青塚砦となる。

その後、膠着状態を打破すべく池田恒興森長可らが行動を起こしたのが4月6日夜のことであった。俗に言う「三河中入り作戦」の決行である。秀吉の犬山入城前に羽黒八幡林合戦で大敗を喫した長可としては、三河岡崎城を攻略して、なんとしても徳川家康に一矢報いたいところでもある。これが森長可の最期となる4月9日の長久手合戦の始まりであり、出陣まで守将を務めていたのが、この砦である。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226102441p:image

私論「下剋上・下克上」その5

翻って言えば、幕末における討幕運動の核となった長州・土佐・肥前などの雄藩は、関ヶ原合戦直後こそ減封や転封を経験しているが、江戸時代を通じて転封することなく領地との繋がりを育んだ結果、幕末には藩を挙げての兵力動員を実現することになる。

本来、幕府を絶対的権力(上位)とするならば薩摩や長州など(下位)の挙兵は下剋上・下克上」と非難されるべきである。しかし、朝廷の権威を利用して世論を巻き込むほどの大勢力になることで、本来下剋上・下克上」と解釈すべき一点は「維新」という耳障りの良い言葉に化したと言える。さらに、朝廷(錦旗)を押し立てることで、これに抗おうとする旧幕府勢力こそ朝廷に対する下剋上・下克上」を目論んでいると認識させるプロパガンダに成功した。

後世の我々は、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争鳥羽伏見の戦いから翌年の箱館戦争終結に至るまで、どうしても戦闘の描写で追いかけてしまう。そのほうが時局がわかりやすいからである。しかし、幕末維新の思想面の複雑さにこそ本質がある。

例えば、長州藩であれば吉田松陰の主張するところは当時において凡そ受け入れられる内容ではなく、その後の藩内抗争の結果として討幕に辿り着いたに過ぎない。土佐藩筑前福岡藩なども幕府への遠慮から勤王党の粛清をおこないながら、最終的には新政府軍に合流する。会津藩越後長岡藩とて必ずしも藩論がまとまっていたわけではない。

幕府の凋落は時の流れとはいえ、弓を引くのは下剋上・下克上」であるという倫理観を奉じる武士層は一定数いたはずである。いや、どの藩においてもその考え方こそ、むしろスタンダードだったかもしれない。幕府(公儀)との共存共栄で現状維持を望む派(主に特権階級や上級武士層)と討幕による社会変革を唱える派(主に下級武士層)の対立軸はどの藩にも少なからず存在したはずである。こうした中で戊辰戦争勃発後に発生した尾張名古屋藩の「青松葉事件」などは藩内抗争を藩主の直裁で無理矢理に決着させた最も凄惨な例と言えよう。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城 青松葉事件碑f:id:shinsaku1234t501:20210103233302j:image尊王思想の強い水戸徳川家出身である徳川慶喜が朝廷への下剋上・下克上」と思われるのを嫌って謹慎に徹したのも無理からぬことであり、朝廷を手中に収めて幕府への下剋上・下克上」を目論む新政府軍、その下剋上・下克上」に立ち向かおうとする会津藩榎本武揚ら旧幕府勢力が存在したのも当然である。

さらに、その新政府軍の中心人物であった西郷隆盛明治10年(1877)に引き起こした西南戦争は、明治政府との戦闘行為にまで発展しているにも関わらず、「乱」とは表記されない。あくまでも「戦役(戦争)」と表現される。もちろん、下剋上・下克上」とも言わない。しかし、その後の西郷はご存知の通り逆賊扱いだったはずである。明らかに社会秩序に対して反逆行為をおこなったからこそ逆賊と呼ばれながら、その行為自体が下剋上・下克上」と表現されない理由は、西郷軍が敗退したためか。単に西郷軍が政府軍に負けたから下剋上・下克上」が成立していないという論法なのだろうか。

以上、下剋上・下克上」にこだわって考察してみたが、どちらに視点を置くかによって解釈が大いに変わることを附す。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103048p:image

 

私論「下剋上・下克上」その4

せっかくだから、江戸幕府を開いた徳川家康源頼朝足利尊氏らと比較してみたい。

確かに、三河における松平氏はそこそこ有力な家柄とは言えるが、その出自も明らかではなく、所詮は土豪の集合体における盟主程度であった。さらに今川家を奉ずる勢力と織田家を奉ずる勢力の拮抗する微妙なバランスの上で岡崎松平家は成立していた。そんな家康が人質生活まで味わいながら今川家、織田家や豊臣家と渡り合って全国区になるまでには幾つもの山坂があったのは言うまでもない。決して最初から中央に躍り出るほどのアドバンテージを有していたわけではない。

静岡県浜松市中区元城町 元城町東照宮 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20201114220034j:imageまた、政治手腕に関しては南光坊天海や林羅山本多正信・大久保忠隣など綺羅星の如きブレーンが存在したにせよ、彼個人がかなり能動的に独裁政治を展開したのは特筆すべきであろう。この点については、有力御家人に神輿の如く推戴されることで盟主として制限を受けざるを得なかった頼朝、南朝勢力や守護大名の台頭に悩まされ続けた尊氏とは明らかに違う。

また、御恩と奉公のバランスで言っても江戸時代を通じて徳川家の譜代家臣はどちらかと言えば高い石高を以って遇されてはいない。にもかかわらず不平不満による下剋上・下克上」は全くと言っていいほど発生していない。これは江戸幕府の支配体制、裏を返せば譜代家臣の従属体制が極めて秩序的であったことを裏付ける。簡単に言うならば、手っ取り早い出世の手段である戦乱が無くなった分、役職や石高の世襲が約束されることで、基礎的な身分が保障されていたことが大きい。

また、家康の六男である長沢松平忠輝のような改易の事例もあるが、基本的には一族や譜代家臣を温存しつつ、なおかつ彼らを核とした支配体制を全国的に確立した。これは、鎌倉幕府室町幕府のような不安定要素を内在した社会を創らなかったと言える。なぜなら、鎌倉幕府の政治機関である「侍所」・「政所」・「問注所」と言うのは、いずれも武士層を対象としたものであり、決して庶民に対応したものではない。これは室町幕府とて同じである。それらに比べ、江戸幕府は全国的な支配体制を以って朝廷・寺社から百姓・町人に至るまで遍く支配・取締の対象としたのである。反乱が起きにくいのは当然である。

他方、有力な外様大名に対しては懐柔策を以って反逆の隙を与えなかった。具体的には譜代大名よりも多くの石高や松平姓を授けることで一門に準ずる厚遇を約束するなどの方法である。「敬して遠ざける」とはこのことであろう。その逆に支配体制を維持するためには、失政などを理由とした改易や転封など手練手管を駆使した事実も否めない。f:id:shinsaku1234t501:20230226103136p:image

私論「下剋上・下克上」その3

南北朝時代の政情不安の中で成立した室町幕府は、成立当初から守護大名の圧力を受け続けた。強烈なまでの独裁で君臨した3代将軍の足利義満がいる一方で、6代将軍の足利義教管領にして「半将軍」の名を恣にした細川政元でさえ下剋上・下克上」に斃れた。さらに13代将軍職の足利義輝に至っては、三好長逸・三好義継・三好宗謂・岩成友通・松永久通らに取り囲まれた中で惨殺される。(「永禄の変」)

京都府北区等持院北町 萬年山等持院 足利義教f:id:shinsaku1234t501:20201011180348j:imageまた、下剋上・下克上」は地方においても頻発する。

⚫️毛利元就武田元繁(安芸守護)を討った「有田中井手合戦」

⚫️和睦を一方的に破棄した龍造寺隆信が勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込む。

⚫️長宗我部元親一条兼定土佐国司)を追放する。

⚫️周防・長門・石見・安芸・豊前筑前の守護である大内義隆下剋上・下克上」を仕掛けた陶晴賢の「大寧寺の変

⚫️土岐頼芸(美濃守護)に下剋上・下克上」を仕掛けて追放した斎藤道三が、後継者の斎藤義龍による下剋上・下克上」に敗れた「長良川の戦い」

岐阜県岐阜市 金華山より見た長良川f:id:shinsaku1234t501:20201011183436j:image織田信長が本能寺で散る羽目になり、豊臣秀吉が独裁政治を確立したかのように見えたが、その死後、直接の御恩を蒙ったはずの家臣の多くは徳川家にシフトした。

拙稿「豊臣家臣団」でも触れた通り、関ヶ原合戦で豊臣家を背負ったはずの西軍が、豊臣家から徳川家にシフトした豊臣家臣団によって敗れるという奇妙な結果がある。その後の大坂の陣も含め、徳川家康には豊臣家の旧臣を以って豊臣家を制するという、さながら業師のような老獪さが見てとれる。

この豊臣家滅亡劇は本来、戦国時代に当たり前のようにおこなわれたライバル潰しの一つと見るべきだと思うが、例えば信長が足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした件や明智光秀が信長・信忠父子を殺害した件がどこか当然の流れのように解釈されるのに比べると、豊臣家を潰した家康が一方的に悪役を買う偏向的な史観で語られることが多い。

その根拠の一つとして、家康が豊臣秀頼という主筋に下剋上・下克上」を仕掛けたとする見方が存在するからだろう。まず、それを言うならば、豊臣秀吉が信長亡き後の織田家を盛り立てるどころか、勢力弱体化に追いやったことこそ主筋に対する下剋上・下克上」と言うべきではなかろうか。

そして、当時の秀頼と家康の力関係を以ってして厳密に主従関係と言えるかどうか、この解釈によって見方は分かれる。「下位の者が、上位の者の地位や権力をおかす」のが下剋上・下克上」と定義付けされるのであれば、家康が下位で、秀頼が上位という明確な証拠を要する。ただ、この点に関しては史実の直視よりも多分に豊臣贔屓の心理が強く作用することも否めない。

ともかくも、徳川家康が絶対的君主として朝廷・公家・武家・寺社に至るまで統制する形で君臨することになる。f:id:shinsaku1234t501:20230226103228p:image

私論「下剋上・下克上」その2

⚫️平清盛後醍醐天皇のように自身が政治をおこなうスタイルではなく、側近による政治機構を確立した。頼朝を始め鎌倉将軍家による独裁が思うように許されなかった反面、ブレーンによる権力掌握が活発化したと言える。有力御家人による合議制と言えば聞こえはいいが、それは勢力の均衡が保たれている場合の話であって、破綻した時には討伐される。「侍所」・「政所」・「問注所」などの統治機構室町幕府にも引き継がれる一方、守護は地方における勢力拡大を図り、のちに幕府の屋台骨を揺るがしていく。

⚫️盟主としての権力や崇敬を集めるのはあくまでも頼朝や尊氏本人のみであり、その兄弟・親族だからといって特別な立場を有することは許されなかった。それゆえに一族の粛清でかえって自家の勢力弱体を演じてしまった。頼朝は御家人との勢力バランスの中で義経・範頼など兄弟を誅殺し、尊氏も腹心の高師直を失う一方で、実弟の直義を殺害したという説がある。

⚫️「御恩と奉公」に代表されるように、忠義と報酬のバランスで繋がる営利的な主従関係を推進する結果となり、これが下剋上・下克上」の風潮へと発展していくことになった。「奉公」とは盲目的な従属を意味するように思いがちだが、実は「御恩」あってこその見返り行為に他ならない。御恩が納得いくものでなければ奉公は滞る。また、幕府の権威が弱いと判断されれば、中央・地方問わず勢力拡大や実権掌握が平然とおこなわれた。「広辞苑」にあるように下位の者が上位の者の地位や権力をおかす風潮の高まりである。

俗に下剋上・下克上」は、南北朝時代応仁の乱に象徴される歴史用語と広く解釈されがちだが、むしろ中世を通じて鎌倉幕府室町幕府ともに将軍職は傀儡君主の側面があってこそ成立していた感がある。鎌倉幕府において三代将軍実朝が横死した後の公家将軍・宮将軍などはまさにそうであった。実際、幕府の都合で将軍が失脚させられる事態さえも発生している。しかし、源氏将軍を否定したわけではなく、あくまでも幕府の支配体制を継承しつつ実権を掌握していったせいか、執権北条氏を将軍職に対する下剋上・下克上」とは言わない。

確かに頼朝没後、御家人の主導権争いから北条氏が抜きん出たとは言うものの、その北条得宗家もまた同じ北条一族や他の御家人から足元をすくわれそうな危機を何度も経験している。のみならず、得宗家の被官である平頼綱は乱を起こし、長崎高綱は内管領として得宗家を凌ぐ権力を握ることになる。これも下剋上・下克上」と解釈できよう。

そういった意味では、鎌倉時代以前に全国的な権力基盤を維持した絶対的君主と言える最後の人物は平清盛であり、彼に下剋上・下克上」を挑んだのが源頼朝という言い方ができるだろうと考える。

神奈川県鎌倉市扇ガ谷 源氏山公園 源頼朝f:id:shinsaku1234t501:20200906155801j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226103324p:image

私論「下剋上・下克上」その1

以下は「広辞苑」の記載内容である。

げ‐こく‐じょう【下剋上・下克上】

(「下、上に剋かつ」の意)下位の者が、上位の者の地位や権力をおかすこと。南北朝時代からの下層階級台頭の社会風潮をいい、室町中期から戦国時代にかけて特に激しくなった。太平記27「臣君を殺し子父を殺す。力を以て争ふ可き時到る故に―の一端にあり」

ただ、問題がある。果たして、南北朝時代を起源とするのが正解なのだろうか。確かに下剋上・下克上」の顕著な動きは南北朝時代以降に事例が多いとは言える。しかし、それ以前にはこのような風潮はなかったとまで言及していいのだろうか。

例えば、大化の改新の端緒として知られる蘇我入鹿暗殺事件はどうであろうか。これは、「乙巳の変」という用語の通り、戦乱にまでは至らず、且つ朝廷の国体を維持した状態で時の政治権力者の排除がおこなわれた、いわば政争の範囲内であることから「変」を用いる。しかし、中大兄皇子中臣鎌足らによる蘇我入鹿への下剋上・下克上」とは表現しない。

時代が下り、平将門藤原純友の例(承平・天慶の乱)もある。これらは朝廷に対して戦乱を以って反逆した行為だから「乱」として位置づけられるが、やはり朝廷への下剋上・下克上」とは表現しない。

そこで、誰もが知る政治変革を成し遂げた大きな例として源頼朝足利尊氏、すなわち鎌倉幕府室町幕府を開闢した両者を比較したところ、意外なほどに共通点が多い点に注目する。

⚫️共に源氏の御曹子として一目置かれる家格を有していた。

⚫️当時の社会情勢に対する不平分子の受け皿として耳目を集めた。それぞれ平家への不満・建武新政への憤懣を原動力とすることで団結し、勢力拡大に成功した。

⚫️一地方から全国区の勢力に発展した。元来は流人、もしくは源氏の血筋とはいえ下野国の一御家人でしかなかった。

⚫️側近勢力に推戴される存在ゆえ、実は個人としての政治能力を意外と発揮していない。その勢力基盤は自身に忠実な与党と言うよりも、対立構図から屯集した不平分子が多かった。そのため盟主でありながら、暗に彼らの期待に沿う動きを要求され続けた。頼朝の場合、北条氏・三浦氏・和田氏など有力御家人があってこその盟主の座であった。その証拠に頼朝没後、将軍職を世襲した頼家や実朝が御家人の支持を得られない中で苦もなく謀殺されてしまった。

尊氏にしても南朝以上に高氏・畠山氏・土岐氏・佐々木氏・赤松氏・上杉氏などの与党のほうがはるかに恐ろしい存在であった。彼らの意向を反映しなければ自身でさえ命が危うかった可能性がある。

栃木県足利市大門通 足利尊氏f:id:shinsaku1234t501:20200802004332j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226103421p:image

中条氏館(埼玉県熊谷市)

埼玉県熊谷市上中条

龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館址f:id:shinsaku1234t501:20210822140428j:image長承元年(1132)、武蔵判官こと藤原常光国司として中条の地に下向し、居住した館址である。

龍智山毘慮遮那寺常光院 藤原常光墓f:id:shinsaku1234t501:20200504210151j:imageその孫と伝わる家長源平合戦を経て鎌倉幕府評定衆にも名を連ね、のちには御成敗式目の制定にも参画した。建久3年(1192)、鎌倉に常駐していた家長は、中条氏館の敷地内に祖父常光の菩提寺を建立した。今も残る龍智山毘慮遮那寺常光院である。

龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館水堀f:id:shinsaku1234t501:20200504210253j:image龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館空堀f:id:shinsaku1234t501:20210822140522j:image家長の同時代、この近辺は隣から隣へ鎌倉御家人の所領が存在した。例えば、同じ熊谷市には、のちの忍城主に繋がる成田氏や熊谷直実・直家父子が居住していた。
隣の行田市には河原高直・盛直兄弟が勢力を持ち、吉見町や北本市には源頼朝の腹違いの弟である範頼の所領があった。加須市の戸崎国延、高柳行元、葛浜行平、道智次郎、常陸に土着する以前の多賀谷氏も挙げられる。鴻巣市には笠原頼直・親景兄弟、奴加田氏などが住していた。

時は下り、家長から数えて十六代目にあたる英俊は、忍城主 成田親泰に臣属、さらに四代のちの常安が成田氏長と不和になって越後に出奔すると所領を没収された。その常安の子、数馬はお家再興を許されると、天正18年(1590)の忍城籠城戦で皿尾口の副将として戦死を遂げる。一方、嫡流当主の景定小田原征伐の最中、小田原城に籠城していたため、留守の中条氏館は廃城の憂き目を味わうことになる。

龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館水堀f:id:shinsaku1234t501:20210822140620j:imageなお余談ではあるが、中条氏には三河に別家がある。時は南北朝時代足利尊氏に属して功があった景長(家長の曾孫)三河高橋庄地頭職として賀茂郡挙母郷(愛知県豊田市)に金谷城を築いた。その弟の秀長室町幕府奉公衆として隆盛を極めるに至ったが、戦国時代には勢力の衰退に伴い、被官の三宅氏や鈴木氏が独立するなど混迷を深めていく。そこに駿河今川義元三河岡崎の松平元康(のちの徳川家康)などが次々と攻撃をしかけ、永禄4年(1561)、当主常隆尾張織田信長家臣 佐久間信盛の来襲になす術もなく降伏した。
余談だが、織田信長肖像画の中で一番有名と言っていい「紙本著色織田信長像」を所蔵する集雲山長興寺は、建武2年(1335)に秀長が創建した三河中条氏の菩提寺でもある。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103512p:image