南北朝時代の政情不安の中で成立した室町幕府は、成立当初から守護大名の圧力を受け続けた。強烈なまでの独裁で君臨した3代将軍の足利義満がいる一方で、6代将軍の足利義教・管領にして「半将軍」の名を恣にした細川政元でさえ「下剋上・下克上」に斃れた。さらに13代将軍職の足利義輝に至っては、三好長逸・三好義継・三好宗謂・岩成友通・松永久通らに取り囲まれた中で惨殺される。(「永禄の変」)
京都府北区等持院北町 萬年山等持院 足利義教像また、「下剋上・下克上」は地方においても頻発する。
⚫️毛利元就が武田元繁(安芸守護)を討った「有田中井手合戦」
⚫️和睦を一方的に破棄した龍造寺隆信が勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込む。
⚫️周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護である大内義隆に「下剋上・下克上」を仕掛けた陶晴賢の「大寧寺の変」
⚫️土岐頼芸(美濃守護)に「下剋上・下克上」を仕掛けて追放した斎藤道三が、後継者の斎藤義龍による「下剋上・下克上」に敗れた「長良川の戦い」
岐阜県岐阜市 金華山より見た長良川織田信長が本能寺で散る羽目になり、豊臣秀吉が独裁政治を確立したかのように見えたが、その死後、直接の御恩を蒙ったはずの家臣の多くは徳川家にシフトした。
拙稿「豊臣家臣団」でも触れた通り、関ヶ原合戦で豊臣家を背負ったはずの西軍が、豊臣家から徳川家にシフトした豊臣家臣団によって敗れるという奇妙な結果がある。その後の大坂の陣も含め、徳川家康には豊臣家の旧臣を以って豊臣家を制するという、さながら業師のような老獪さが見てとれる。
この豊臣家滅亡劇は本来、戦国時代に当たり前のようにおこなわれたライバル潰しの一つと見るべきだと思うが、例えば信長が足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした件や明智光秀が信長・信忠父子を殺害した件がどこか当然の流れのように解釈されるのに比べると、豊臣家を潰した家康が一方的に悪役を買う偏向的な史観で語られることが多い。
その根拠の一つとして、家康が豊臣秀頼という主筋に「下剋上・下克上」を仕掛けたとする見方が存在するからだろう。まず、それを言うならば、豊臣秀吉が信長亡き後の織田家を盛り立てるどころか、勢力弱体化に追いやったことこそ主筋に対する「下剋上・下克上」と言うべきではなかろうか。
そして、当時の秀頼と家康の力関係を以ってして厳密に主従関係と言えるかどうか、この解釈によって見方は分かれる。「下位の者が、上位の者の地位や権力をおかす」のが「下剋上・下克上」と定義付けされるのであれば、家康が下位で、秀頼が上位という明確な証拠を要する。ただ、この点に関しては史実の直視よりも多分に豊臣贔屓の心理が強く作用することも否めない。