侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

私論「下剋上・下克上」その2

⚫️平清盛後醍醐天皇のように自身が政治をおこなうスタイルではなく、側近による政治機構を確立した。頼朝を始め鎌倉将軍家による独裁が思うように許されなかった反面、ブレーンによる権力掌握が活発化したと言える。有力御家人による合議制と言えば聞こえはいいが、それは勢力の均衡が保たれている場合の話であって、破綻した時には討伐される。「侍所」・「政所」・「問注所」などの統治機構室町幕府にも引き継がれる一方、守護は地方における勢力拡大を図り、のちに幕府の屋台骨を揺るがしていく。

⚫️盟主としての権力や崇敬を集めるのはあくまでも頼朝や尊氏本人のみであり、その兄弟・親族だからといって特別な立場を有することは許されなかった。それゆえに一族の粛清でかえって自家の勢力弱体を演じてしまった。頼朝は御家人との勢力バランスの中で義経・範頼など兄弟を誅殺し、尊氏も腹心の高師直を失う一方で、実弟の直義を殺害したという説がある。

⚫️「御恩と奉公」に代表されるように、忠義と報酬のバランスで繋がる営利的な主従関係を推進する結果となり、これが下剋上・下克上」の風潮へと発展していくことになった。「奉公」とは盲目的な従属を意味するように思いがちだが、実は「御恩」あってこその見返り行為に他ならない。御恩が納得いくものでなければ奉公は滞る。また、幕府の権威が弱いと判断されれば、中央・地方問わず勢力拡大や実権掌握が平然とおこなわれた。「広辞苑」にあるように下位の者が上位の者の地位や権力をおかす風潮の高まりである。

俗に下剋上・下克上」は、南北朝時代応仁の乱に象徴される歴史用語と広く解釈されがちだが、むしろ中世を通じて鎌倉幕府室町幕府ともに将軍職は傀儡君主の側面があってこそ成立していた感がある。鎌倉幕府において三代将軍実朝が横死した後の公家将軍・宮将軍などはまさにそうであった。実際、幕府の都合で将軍が失脚させられる事態さえも発生している。しかし、源氏将軍を否定したわけではなく、あくまでも幕府の支配体制を継承しつつ実権を掌握していったせいか、執権北条氏を将軍職に対する下剋上・下克上」とは言わない。

確かに頼朝没後、御家人の主導権争いから北条氏が抜きん出たとは言うものの、その北条得宗家もまた同じ北条一族や他の御家人から足元をすくわれそうな危機を何度も経験している。のみならず、得宗家の被官である平頼綱は乱を起こし、長崎高綱は内管領として得宗家を凌ぐ権力を握ることになる。これも下剋上・下克上」と解釈できよう。

そういった意味では、鎌倉時代以前に全国的な権力基盤を維持した絶対的君主と言える最後の人物は平清盛であり、彼に下剋上・下克上」を挑んだのが源頼朝という言い方ができるだろうと考える。

神奈川県鎌倉市扇ガ谷 源氏山公園 源頼朝f:id:shinsaku1234t501:20200906155801j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226103324p:image