侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その7

悲劇はなおも続く。苛烈な処分を以って脱隊騒動を鎮圧した木戸孝允のやり方に異論を唱える前原一誠が9月2日、兵部大輔を辞職して明治政府を下野した。

そして、明治9年(1876)、旧脱隊兵や旧干城隊士を含む殉国軍を率いて彼が挙兵したのが萩の乱である。脱隊騒動の鎮圧後、農民や町民は家業に戻る術もあったが、武士層は秩禄処分で家禄までも危うくなり、廃刀令などで武士の特権さえも奪われたと焦燥を募らせる。討幕や維新といった革命は、信じていた栄達どころか、拠りどころであった身分特権や生活保障さえも奪い去ったのである。そこには教科書で言うところの「士族の反乱」という一言で片付けることができない問題が種々存在した。例えば、鹿児島が西南戦争まで矛盾を抱え続けたのも同様の問題を孕んでいたからである。

思い返せば、高杉が「武士層で構成された干城隊が藩の軍政を掌握すべき」と考えていたのは、この悲劇を予見したものだろうか。確かに、命がけで俗論党政権を打倒した勇敢な軍隊ではあるが、その分、乱暴狼藉を働いて傍若無人に振る舞う諸隊に困惑した高杉が、干城隊という藩秩序の下に組み込もうとした苦慮は理解できないわけではない。

「然ば私儀当地罷下候所、殊外混雑驚入候次第に御座候付、此中之敗軍不堪愧恥候。何卒雪恥候はんと思慮仕候所、惣奉行方自ら惣奉行之指揮に御座候事故、如何共も難為、遂に有志隊を相調候と決定仕候。」(前田孫右衛門あて 文久三年六月八日)

山口県下関市新地町 高杉東行終焉之地碑f:id:shinsaku1234t501:20191023025250j:image実は当初から高杉の本音は垣間見えていた。文久3年(1863)の下関攘夷戦直後、高杉が目の当たりにしたのは外国艦隊に完敗した長州藩兵の姿であり、混乱した町の様子であった。この如何ともしがたい事態に、やむなく有志隊(奇兵隊)を結成する決意をしたとある。本来は正規武士で構成された先鋒隊だけで下関を防衛できれば、それに越したことはないが、この有様を見るにつけ、苦肉の策として奇兵隊を創設したというのである。高杉の中では主役を補う脇役としての奇兵隊という位置付けに過ぎない。

一方、長州藩内訌戦・第二次長州征伐(四境戦争)・戊辰戦争と戦火をくぐり抜ける中で、諸隊の当事者たちが論功や立身出世、生活保障を期待したとしても当然と言える。しかし、蓋を開けてみたら、明治維新は幕府と朝廷の政権の奪い合いでしかなかった。その後の歴史が物語る通り、士族の反乱・自由民権運動などを経て身分制度が崩壊していくには、まだまだ多大な時間を要した。それにつけても、この一件にはどうしても「トカゲの尻尾切り」のようなイメージがつきまとう。f:id:shinsaku1234t501:20230226204726p:image