侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その6

まず、第二次長州征伐の際に占領した豊前企救郡(現在の福岡県北九州市行橋市)と石見浜田藩領(現在の島根県浜田市)を朝廷の命に従い返還することとなった。すなわち、山口藩の領土が減少するからには、兵士のリストラを図らなければならない。

さらに、干城隊・奇兵隊及び諸隊の中には、戊辰戦争の賞典(論功行賞)に対する不満が根強く残っていた。そこに、山口藩の常備軍四個大隊を編制するにあたり干城隊や諸隊から幹部クラスが優先的に取り立てられた。一方、選に漏れた者は一方的に解散を言い渡されたが、諸隊を解体することなく依然として居座り続けた。そして、これらの憤懣が「脱隊騒動」と呼ばれる事件を惹き起こした。

明治3年(1870)1月13日に石見浜田裁判所を襲撃した諸隊(脱隊兵)は、24日には山口藩の命を受けて立ちはだかった干城隊を撃退して山口藩議事館(山口藩庁)を包囲した。そこに農民一揆が合流したことで勢いが膨れ上がる。そして、解散の撤回を要求すると同時に、常備軍構想の中心人物として元奇兵隊士の三浦五郎(のちの三浦梧楼)襲撃を企てたが、間一髪、三浦は脱出する。

東京都港区南青山2丁目 都立青山霊園 三浦梧楼墓f:id:shinsaku1234t501:20191020064359j:image当時、明治政府で兵部大輔の職にあった前原一誠の胸中は極めて複雑だった。そもそも干城隊の頭取であり、第二次長州征伐の最中に病気で戦線を離脱した高杉の後任として奇兵隊をも指揮した人物である。また、北越戦争でも諸隊と行動を共にした。ゆえに干城隊・諸隊の脱隊兵に同情的な立場であったが、三条実美の慰留を受けて東京に留まらざるをえなかった。

一方、偶然にも常備軍編制のため帰郷していた木戸孝允・政府軍を率いて駆けつけた井上馨らは知藩事の職にある毛利元徳の命を受け、長三洲・高杉小忠太高杉晋作の父)ら山口藩常備軍と合流し、脱隊兵と対峙する。騒動は小郡や三田尻での激戦を経て、ようやく鎮圧に至った。脱隊兵の長島義輔ら主要人物は斬首に処せられたが、首謀者の一人である大楽源太郎は逃亡した。一方、脱隊兵の説諭に失敗した山口藩権大参事の楫取素彦は引責辞職した。

高杉の提唱により結成し、高杉のもとで藩内訌戦を戦い抜き、高杉の遺志を継いで討幕に邁進した奇兵隊及び諸隊は、皮肉にも高杉が忠義を尽くした山口藩によって一揆の如く滅ぼされたのである。明治維新の悲劇は会津藩に代表されるように敗北した幕府側にスポットが当たりがちだが、実のところ、新政府側に就いた諸藩にも何かしらの形で存在したことを忘れてはいけない。f:id:shinsaku1234t501:20230226204814p:image