侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

内藤家長と佐貫城(千葉県富津市)

千葉県富津市佐貫

天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の江戸お討ち入りにより、内藤弥次右衛門家長が上総天羽郡佐貫2万石で入封した平山城である。

佐貫城址大手口f:id:shinsaku1234t501:20190504090632j:image応仁年間(1467〜1469)に武田義広が築城したことに始まったとされ、真里谷武田家・安房里見家などの幾多の攻防の地でもあった。というのも、弘治2年(1556)に里見義弘がおこなった鎌倉攻撃に際して水軍を発した事実にも裏付けられるように、内房における水軍基地にもなりうる要衝だったことが窺える。

また、天正6年(1578)に里見義弘が死去すると、その子梅王丸(のちの里見義重)と家臣加藤信景が入城したものの、家督相続を巡って対立関係にあった里見義頼が北条氏政の後援を得て上総統一に着手した結果、天正8年(1580)、籠城戦に敗れた義重は開城の上、出家に追い込まれた。

城郭は本丸・二の丸・三の丸で構成され、中世のものと思われる切岸と、近世に整備されたであろう大手門櫓台の石垣などが混在している。

佐貫城址 二の丸切岸f:id:shinsaku1234t501:20190504095812j:image佐貫城址 大手門櫓台f:id:shinsaku1234t501:20190504100026j:imageさて、内藤家長であるが、三河一向一揆では父清長と袂を分かち、家康のもとで一揆鎮圧に奮戦する。以降、父譲りの弓の名手として遠江掛川城遠江三方ヶ原、三河長篠、尾張小牧長久手、相模小田原と、主要な合戦に従軍して常に徳川家の軍事の一角を担う。また、家康の長男信康の死後、その家臣団の多くを預けられた。
さらに、天正17年(1589)には豊臣秀吉から豊臣姓を賜る。井伊直政榊原康政・大久保忠隣・高力清長などに続く徳川家臣への賜姓である。家康の偏諱から「家長」と名乗りながら豊臣姓を賜るという、実は天下に名高い武将であった。

慶長5年(1600)、家長は鳥居元忠とともに山城伏見城に籠城し、挙兵した西軍を迎え撃つ。
この時、「西軍を相手に正々堂々と総大将の名乗りを挙げて討死しないと三河武士の名折れ」という総大将の元忠と、「東軍が西上するための時間稼ぎをするために討死の事実を隠して、可能な限り西軍を翻弄すべし」とする副将の家長との間で意見の相違が生じた。
結果、総大将の元忠は石段に腰掛けて堂々と名乗って切腹し、その首は西軍の手によって梟首された。
一方、西ノ丸の守将であった家長は得意の弓で防戦するも燃えさかる炎の中で自刃する。続いて16歳の次男小一郎元長も壮烈果敢な自刃を遂げた。
彼らの首級は密かに家臣の手で近江大津の大練寺に埋葬されたが、のち長男の政長が家長の菩提寺として佐貫に善昌寺(のちの勝隆寺)を創建したことで改葬された。
対照的とはいえ、鳥居元忠内藤家長どちらも徳川三河武士の意地を貫いた壮絶な死と言える。ちなみに享年は55歳と伝わる。

千葉県富津市佐貫花香谷 旧勝隆寺址 内藤家長墓(左から2番目 善昌院殿)、元長墓(左から3番目 修徳院殿)f:id:shinsaku1234t501:20190504093013j:image当時、家長の長男政長は西軍の上杉景勝に備えて下野宇都宮城を守備していた。家長の家臣、原田勘右衛門の注進で伏見落城を知った家康は、直ちに政長へ家督相続を命じる。

結果、宇都宮城守備の功と父家長の忠死により、関ヶ原合戦後に1万石を加増され、のち佐貫において4万5千石にまで出世した。さらに、元和8年(1622)7万石に加増され陸奥磐城平に移封となる。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226205336p:image