侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その3

結果、長男の掃部丞久茂・四男の越前守政重ら兄弟による武功は、上林家の地位を決定的なものにした。というのも、天領(幕府直轄地)となった宇治には代官所が設置され、久茂の血統である上林六郎家(上の上林家・峯順家)と政重の血統からなる上林又兵衛家(下の上林家・竹庵家)が交替で江戸中期まで代官職を世襲することになる。

一方、上林家は江戸時代を通じて朝廷や将軍家が飲むお茶を献上する「御物御茶師(ごもつおちゃし)」を務めた。貞享2年(1685)刊の「京羽二重」巻六から、上林諸家と呼ばれる一族の隆盛が見て取れる。

⚫️峯順家(久茂の孫、勝盛を祖とする系統。上林六郎家・上林門太郎家・上の上林家・宇治代官職500石)

京都府宇治市宇治蓮華 朝日山平等院最勝院 上の上林家初代の墓f:id:shinsaku1234t501:20190308211902j:image⚫️平入家(勝盛の弟で祖父久茂の養子となった勝茂を祖とする系統)

⚫️味卜家(久重次男紹喜を祖とする系統。肥後細川家・土佐山内家御用)

京都府宇治市宇治蓮華 朝日山平等院最勝院 上林味卜家墓f:id:shinsaku1234t501:20190308211952j:image⚫️春松家(久重三男秀慶を祖とする系統。尾張徳川家・阿波蜂須賀家御用)

⚫️竹庵家(久重四男政重を祖とする系統。上林又兵衛家・下の上林家・宇治代官職300石)

政重の戦死直後に高野山へ逃れていた嫡男政信を呼び戻した徳川家康が「又兵衛」の名とともに300石を下賜したことに始まる。

⚫️三入家(上林の姓を賜った藤村三入の系統。肥前鍋島家永世用達)

初代三入は関ヶ原合戦で西軍に属した鍋島勝茂の赦免に奔走した恩により、勝茂から「永世用達」の栄誉を受ける。この縁を頼って明治32年(1899)佐賀県佐賀市に移ったのが、現在も残る上林茶店である。ちなみに、三代目三入が竹庵家の娘を娶ったことで、れっきとした上林家の血統でもある。

また同時に、上林家は三代将軍家光の頃から新茶を献上するための御茶壺道中を仕切る立場にあった。東海道経由で江戸城から中身が入っていない御茶壺道中が到着すると、上林家で碾茶を茶壺に詰め中山道経由で江戸城へ向かう、これが御茶壺道中である。

「ずいずいずっころばし こまみそずい 茶壺に追われてトッピンシャン 抜けたらドンドコショ」とは、まさにこの道中行列の威風を謡ったものである。即ち、大名行列と同格であるため、沿道の庶民は行列が通り過ぎるまで平伏を強いられる。もちろん、不調法があれば手打ちにさえなりかねない。ゆえに茶壺道中が近づくと追われるかのように家に戻り、戸をピシャンと締めて息を潜める。行列が通過したら「やれやれ」と胸を撫で下ろす。こんな光景が慶応3年(1867)まで続いたのである。f:id:shinsaku1234t501:20230304104525p:image