侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その1

天正10年(1582)6月2日、泉州堺を出発した徳川家康一行は京都を目指すが、茶屋四郎次郎から本能寺の変報を受けて、一路三河への脱出を敢行することになる。この時、山城宇治在住の上林久茂(かんばやしひさもち)なる者が、家康一行を手引きしたとされる。

そもそも、この上林家は清和源氏赤井家より発した家流である。赤井秀家が足利尊氏のもとで功を立てたことにより丹波何鹿郡上林庄(現 京都府綾部市)を賜り、室町時代には若狭との国境に上林城を築城したとされる。その後、上林氏忠、もしくはその嫡男である加賀守久重の代に山城宇治に移住して、茶の栽培を生業とすることになる。

その久重の長男、久茂(久徳)は織田信長豊臣秀吉と時代の覇者に歴仕していくことになる。宇治茶の最大の庇護者であった室町幕府の滅亡後、信長に仕えた久茂は、天正5年(1577)、謀反を起こした松永久秀を討つために軍を進める信長軍を信貴山城まで道案内するなどの功により知行を賜る。茶の湯に精通していた久秀との関係は定かではないが、全くの無関係ではなかろう。また、天正15年(1587)の北野大茶会で使用されたのが上林家の製茶「極上」であった。さらに天正17年(1589)には、豊臣秀吉より知行390石を賜って御茶頭取に任じられる。

一方、四男の政重はどういうわけか、徳川家康に招かれ、元亀2年(1571)に三河岡崎土呂郷の奉行に任じられ、三河茶の栽培に関わることになる。

愛知県岡崎市福岡町 土呂三八市碑f:id:shinsaku1234t501:20200426155804j:imageいつ頃から政重が家康と昵懇の間柄にあったのか定かではないが、織田信長と家康の同盟関係を背景と考えれば、信長の引き合わせという可能性かもしれない。

そして、家康の関東移封にあたって、その命により宇治に帰郷して製茶業を営む。家康の命令による帰郷となると茶屋四郎次郎と同様、家康に上方の情勢を伝える立場にあったとも考えられる。

冒頭に戻るが、本能寺の変直後、宇治において家康の危急を知った久茂は、近江信楽の多羅尾家までの道中案内を買って出たのであろう。久茂にとって家康は亡き信長の盟友であり、末弟政重の主君でもある。助けることに何の不思議もなかっただろうが、これが上林家の運が開ける第一歩であった。

奇しくも、江戸初期から中期まで上林家が宇治代官職を世襲したのち、幕末には多羅尾家が同職を務めることになる。そういう意味では、上林家と多羅尾家は地理的なことも含め、旧知の間柄にあったのかもしれない。

京都府宇治市宇治妙楽 京都銀行宇治支店 宇治代官所跡碑f:id:shinsaku1234t501:20190308211141j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230304104723p:image