侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

寛永寺(東京都台東区)

東京都台東区上野桜木

寛永寺円頓院そのものについては語るまでもない。西の比叡山に倣って、東の比叡山ということで東叡山と号す。往時36箇所あった子院は19箇所となり、うち15箇所がこの地域に現存する。
もとは藤堂高虎(伊勢津32万3千石)や津軽信枚(陸奥鷹岡4万7千石)、堀直寄(越後村上10万石)らの下屋敷があった地であり、藤堂の領国である伊賀上野に因んで、「上野」という地名になったとの説がある。将軍徳川秀忠の求めに応じて藤堂らがこの屋敷地を返上したことに始まり、南光坊天海が現在の東京国立博物館の地に薬師如来像を祀る本坊を建立したのが寛永2年(1625)、それゆえの寛永寺である。開基は当時の将軍 徳川家光であり、開山は天海である。

さらに、寛永8年(1631)には清水寺を模した清水観音堂や五重塔、堀直寄寄進の大仏などが建立された。また、水谷勝隆(常陸下館3万2千石)が不忍池の真ん中に島を造ると、天海が琵琶湖竹生島宝厳寺から弁財天を勧請して弁天堂を建立した。

これらの所縁から上野恩賜公園内には南光坊天海の毛髪塔(都史跡)があり、寛永寺子院の一つ、寒松院のものとして東京都恩賜上野動物園内に藤堂高虎一族の墓地が存在する。

東京都立上野恩賜公園 天海僧正毛髪塔f:id:shinsaku1234t501:20190916011229j:image東京都恩賜上野動物園 寒松院藤堂家墓地f:id:shinsaku1234t501:20170606222447j:image幕末の慶応4年(1868)には徳川慶喜江戸城を出て寛永寺本堂裏手にある書院に謹慎し、彰義隊と新政府軍の間に起きた上野戦争で伽藍はほぼ焼失した。

その隙に脱出した寛永寺貫主 輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)は、幕府脱走軍として仙台藩に身を寄せ、一時は奥羽越列藩同盟の盟主に推戴されるが、仙台藩とともに降伏後、京都の実家である伏見宮家で蟄居に処せられた。

慶応4年に限って言えば、寛永寺は歴史の大きな舞台そのものであった。絶対恭順の意を示す慶喜・一矢報いんとする彰義隊・朝廷の出身でありながら新政府軍に抵抗する立場になった輪王寺宮、わずかな期間にさまざまな歴史が交錯したと言える。その結果、旧幕府軍と関係深いことを理由に明治新政府が寺域の多くを没収したため、江戸時代の10分の1程度にまで縮小を迫られた。

また、寛永寺子院の現龍院から少し離れた場所にある「殉死之墓」に立ち入れば、三代将軍家光の死に殉じた三枝守恵・堀田正盛阿部重次・内田正信の墓があり、現龍院の開基でもある稲葉正成(春日局の元夫)の墓もある。(完)

現龍院殉死之墓 三枝守恵墓f:id:shinsaku1234t501:20170606224201j:image現龍院殉死之墓 堀田正盛f:id:shinsaku1234t501:20170606222706j:image現龍院殉死之墓 阿部重次f:id:shinsaku1234t501:20170606222738j:image現龍院殉死之墓 内田正信墓f:id:shinsaku1234t501:20170606222811j:image現龍院殉死之墓 稲葉正成f:id:shinsaku1234t501:20170606222530j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223021228p:image