侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その7

そして、大石自身、何もなければ平穏な人生を歩めたはずが、赤穂藩に、しかも家老の家柄に、いやもっと言えば武士に生まれてしまった自分の人生をどこか悔やむような思いがあったのではないか。

東京都港区高輪 萬松山泉岳寺 大石良雄f:id:shinsaku1234t501:20190129115444j:image「あらたのし 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」

本懐を遂げたことで全てが吹っ切れたかのように解釈されがちな大石の辞世の句だが、どこか自身の転変した生き様を嘲笑するような屈折した思いを感じる。また、本懐を遂げたことで背負ってきた荷物を降ろしたような安堵の思いといずれ死にゆく身を並列したことから察するに、生と死を見つめた形跡が窺える。実際には彼の心に「かかる雲なし」と言えるほど晴れ晴れとした思いはなかったのではないか。

別れた妻子、おそらく生まれたであろう末子(のちの大石良恭)、愛妾おかるとやはりまだ生まれていない子、まだ若い身の上で自分と同じく切腹を迎える嫡男主税良金、ともに戦った同志たち、どれをとっても未練と哀惜は尽きない。だからこそ「かかる雲なし」とうそぶいたのかもしれない。

東京都港区高輪 萬松山泉岳寺 大石良金墓f:id:shinsaku1234t501:20190129120027j:imageそういう意味では、もう一つの辞世と伝わる次の句のほうがシンプルな表現である。

「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」

こんにちの我々は演出に彩られた忠臣蔵を通して赤穂事件を知るところが多く、「武士とは何ぞや」という漠然としたイメージを「忠義」や「切腹」という点描で考えがちである。実際、これらのキーワードがその後のこの国における精神・思想分野に多大なる影響を与えたことは言うまでもない。

しかし、真逆の視点で見た場合、この一件は「忠義」に名を借りた騒擾事件でしかない。また、それが将軍お膝元の江戸でおこなわれたとあっては町奉行所、ひいては幕府がその面目にかけて許すわけにはいかない。f:id:shinsaku1234t501:20240223033704p:image