五十人にも満たない兵力で挑む、この戦いをことさら有利に展開するため、彼らはさまざまな演出を凝らしていた可能性がある。近隣邸・部外者に対しては、討ち入りの挨拶・火気の始末など、実にあっぱれな仕儀を見せ、結果的に旧赤穂家臣に寄せる同情や人気は世論さえも動かしつつあった。
一方、吉良邸内での旧赤穂家臣はあまつさえ寝込みを襲い、弓の弦を切断して無抵抗に追い込み、離れの建物には外から雨戸を打ちつけて閉じ込める、一人の敵を多勢で取り囲む、眠りから飛び起きた吉良方がほぼ丸腰なのに対して旧赤穂家臣は鎖帷子まで着込んでいるなど、およそ我々のイメージする武士道に適ったとは言い難いほどの手段を使ってまでの必勝体制である。しかし、これも無理はない。旧赤穂藩士の正々堂々たる討ち入りという建前よりも、千載一遇のチャンスを逃すことなく吉良の首級を挙げることにのみ主眼が置かれていた紛れも無い証拠である。戦国時代の合戦のように敵軍を総崩れに追い込めばいいというものではなく、たった1人の仇敵の首を挙げなければ成功にならないのが仇討ちである。
ただ、こうまでして挑んだ旧赤穂家臣を忠臣と言うならば、この乱戦の中で主君吉良義央のために闘って斃れた小林央通・清水一学・須藤与一右衛門・鳥居正次らもまた忠臣と呼ぶべきだろう。
東京都中野区上高田4丁目 龍寶山萬昌院功運寺 吉良家忠臣供養塔特に山吉盛侍の場合、元来は上杉綱憲の家臣でありながら義周(上杉綱憲次男)が養子縁組で吉良家に入った時に扈従してきた小姓でしかない。彼の主君は厳密には義周であって義央ではないのだが、義周を守護するためにも吉良家臣として闘わざるを得なかった。顔に深傷を負った山吉は、事件後に改易となって信州諏訪へ配流となった義周に最後まで付き従い、その死を看取る。これぞある意味、忠臣蔵と言えよう。
さて、夜明け前に夜着のまま引きすえられた吉良義央を前にして、大石の胸中にあったものは何か。もちろん、騒動の一方の当事者であるため恨みもあったとは思うが、幕府からなまじお咎めなしとされたため、このような生き恥・死に恥を晒した吉良への一抹の同情だったかもしれない。