侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その5

しかし、浅野長広を擁したお家再興が潰えた時、彼の中から一抹の期待さえもが奪われた。生への執着を捨てなければならない決断の瞬間でもある。元筆頭家老として、また同志盟約の長として、もっとも避けたかった方向に進まざるをえない。筆舌に尽くしがたい思いがあったことだろう。「これで後顧の憂いなく討ち入りに踏み切れる」と勇躍したようには思えない。

その後、神文返しをして同志の気持ちを試したとされる一件があるが、様々な事情や立場から討ち入りの覚悟が揺らぐ者を仲間に加えれば、討ち入り前に情報が漏れたり、血気にはやってぶち壊しになる恐れがある。あえて偽りをぶつけて慎重に人を見極める作業と伝わる。

これも見方によっては、「事情が許さない者を無理やりに巻き込みたくない」という配慮と解釈することもできる。大石自身、同志盟約の長として16歳の長男主税を同志に加えざるをえない立場にあるが、巻き添えを最小限にしたい気持ちは一人の親として当然あったと思われる。まさにその対極にある例として、矢頭長助が17歳の長男 右衛門七に同志加盟を遺言してこの世を去ったことが挙げられる。

本来、江戸時代において仇討ちが公的に認められた例は、父母や兄など尊属に関する案件のみが対象とされ、妻子弟妹などの卑属や他人(友人や主君)の場合は認められていない。即ち、内匠頭の仇討ちには義務も権利も存在しない。にもかかわらず、世論の昂まりと同志の勢いに翻弄され、引きずられてきたのは大石だったとさえ言える。冷静に考えた時、赤穂旧臣の討ち入りは公的にも、法的にも合致したものではなく、単なる暴動として処罰、もしくは鎮圧される恐れさえある。そんな結果のために、家族まで巻き込んで苦しい生活に甘んじる必要があるだろうか。前途ある若者を犠牲にする必要があるだろうか。

実際、改易から討ち入りまでの期間においてほとんどの旧赤穂家臣は逼迫した生活を余儀なく強いられた。無理もない。支配層に属していた武士がひとたび浪人となれば、そんなに器用に市井で通用するはずがない。一部、商才や技能を持ち合わせた者だけがうまく世の中に溶け込んだだけである。討ち入りだけを願って困窮に耐える旧臣たちに死に場所を与えるのも、このまま市井で平穏に生きる道を選ばせるのも、大石にとっては討ち入り前の大事な作業だったような気がする。

それを経て「やらざるをえない」という引きずられるような思いから「敢然とやるしかない」という不退転の決意で臨んだ大石は、将軍お膝元の江戸市中で一大決戦に臨むことになる。

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