侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

没落の前田利昌

前田利昌は、嫡男の利久をはじめ利玄・安勝・利家・良之・秀継などの男子に恵まれる。中でも、四男の利家と五男の佐脇良之は織田信長の家中で出色の人物と言える。

愛知県名古屋市中川区荒子4丁目 冨士大権現天満天神宮 荒子城址前田利家卿誕生之遺址碑)f:id:shinsaku1234t501:20180812121034j:imageさて、その利昌には利春という別名がある。歴史上の人物には幼名や通称、別名、法名など、さまざまな名があるが、この利昌についてはいささか特異な事情がある。

宝永6年(1709)2月15日、翌日に予定されている新将軍 徳川家宣寛永寺参詣に関する老中奉書を回覧中、織田秀親(大和柳本藩主)が同役の前田利昌(加賀大聖寺新田藩主)に見せようとしなかった。かねてより仲が悪かったがゆえの嫌がらせと考えられる。

そして、翌日、織田秀親は寛永寺吉祥院にて前田利昌に殺害される。利昌の家臣 木村九左衛門が秀親を後ろから羽交い締めにした上で、利昌が刺殺したのである。有名な浅野内匠頭の刃傷事件から8年後の凶行であった。

武芸達者で体格の大きい秀親が厠に立った隙を突いて、打ち合わせ通り家来に羽交い締めをさせる用意周到な策だった。実は前日、利昌が腹心の木村に計画を打ち明け、「浅野内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられたはずだ」と語ったという。

18日、利昌は切腹し、お家断絶となった。思い返せば、前田利家の子孫が織田有楽斎の子孫を殺害したのである。この一件を受けて、加賀金沢前田家は幕府を憚って、祖先である利昌を利春に改名したという。祖先の利昌には何らの落ち度もないので気の毒な話ではあるが、刃傷事件を起こした子孫が未来永劫、「利昌」として世間に記憶されていく以上、同名の祖先を改名するしかなかったのだろう。こうして、利昌が利春と伝わったと考えられている。

戦国の世に前田家勃興の糸口を作った前田利昌は、後世、不始末を起こして没落した子孫によって前田利春と書き換えられるに至った。誠に稀有の例と言えよう。