城主については定かではないので「千葉実録」など諸説を拾遺して紹介する。
鎌倉時代、千葉常胤の四男である多部田四郎こと、大須賀胤信が地頭として在地したことから築城されたと推察される。
宝珠山最福寺 多部田城土塁戦国時代の城主とされる白井胤治は、永禄9年(1566)の臼井城の戦いで上杉輝虎を相手に劇的な勝利をもたらした軍配師とされるが、全く別人の白井胤定とする説もあり、実在さえ定かではない。しかし、ここでは胤治の説に従って紹介する。
宝珠山最福寺 多部田城土塁長らく男子が無かった胤治は、すでに真壁宗幹を養子としていたが、この勝利の年に胤隆、のちに胤邑と男子に恵まれた。しかし、あくまでも宗幹を嫡男とした。
宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀天正18年(1590)、小田原征伐に際して宗幹・胤邑らが小田原に入城する一方、胤隆が多部田城を守備したが、本多忠勝・平岩親吉麾下の攻撃を受けて降伏開城する。
宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀戦後、胤治・宗幹らは豊臣秀吉に仕えたと伝わるが、胤治については定かではない。
宗幹は秀吉の命で秀次の家老となったが、秀次事件では何らの処罰も受けず、また秀吉の直臣に戻っている。肥前名護屋城に詰めていたとする記述がある。
宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀一方で、宗幹の次男幹時には秀次事件に連座して浪人となり、帰農したとする説がある。
その幹時の長女、春が徳川家康の侍女だった縁で、弟の忠左衛門伊信が水戸徳川家に仕官する。頼房・光圀のもとで水戸藩大老・城代家老を歴任し、子孫は重臣として幕末まで家名を保つことになる。
また、幹時の次女、良は淀殿の侍女(もしくは千姫付き侍女)となり、大坂夏の陣で千姫を伴って脱出する。のち、八丈島代官となる旗本の豊島忠次に嫁ぎ、その長男の勝久が旗本白井家を興す。さらに、その家系から大奥年寄の江島(絵島)を輩出することになる。
宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀ここで余談だが、慶長16年(1611)、徳川家康から豊臣秀頼との二条城会見を打診された淀殿は、秀頼の身を案じるあまり軍配師の白井龍伯に吉凶を占わせた。香占いを三度おこなっても全て「大凶」であったが、会見を拒否することで家康の心象を悪くしたくない片桐且元が「吉」と偽って言上したことで淀殿が納得し、会見が実現の運びとなる。会見終了後、龍伯は淀殿から褒美として白銀百枚を賜るが、内心自分の占いが外れたことを恥じて閑居したという。この龍伯も胤治の子孫の可能性がある。
奇しくも、上杉輝虎に勝利した胤治といい、この龍伯といい、占いにまつわるエピソードが共通なのは興味深い。
宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀なお、多部田村は江戸時代、旗本戸田氏の領するところであったが、城が利用された事実がないので、おそらく小田原征伐時の降伏開城をもって廃城になったと思われる。
宝珠山最福寺 多部田城土塁太平洋戦争末期、米軍の九十九里上陸に備えて陸軍の一部隊が最福寺に駐屯した。これにより最福寺に残っていた城址遺構に防空壕が掘られるなど現状改変が施された。
多部田城址 最福寺の郭(左)と主郭(右)また、最福寺と道を挟んだ主郭においても堀を埋めて土橋を設けたり、装甲車を隠すために斜面を削るなどの改変が生じた。
それゆえ、全体的に遺構が良く残るとはいうものの、城の遺構と陸軍の塹壕の判別ができない部分がある。(完)
多部田城主郭