侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

小牧長久手戦跡 上末城(愛知県小牧市)

愛知県小牧市上末

国道155号線沿いにある上末城址f:id:shinsaku1234t501:20170606173607j:image小牧長久手合戦の関係城砦を地図で俯瞰すると非常に分かりやすい。
犬山城から南の小牧市方面に張り出すように展開する羽柴秀吉軍と小牧山城を中心とした織田信雄徳川家康軍が犬山城に向けて備える。

上末城はその狭間に位置する城で、身の振り方次第では羽柴軍の先鋒にも、織田・徳川軍の先鋒にもなりうる存在だった。

城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170606173648j:image当時の城主 落合安親・庄九郎親子にとってはかなり切迫した状況があったと推察される。元々が織田信長の家臣であった以上、尾張の領主となった信雄に仕えていた時期があるにも関わらず、羽柴軍に味方する道を選んだのである。

そして、徳川家康小牧山城近辺に出陣している間に、岡崎城を攻略しようとする三河中入りの作戦が持ち上がると、その道案内を務めることになり、羽柴軍の池田恒興・元助親子を先導して出陣する。しかし、中入り軍は長久手付近で徳川軍の追撃を受けて壊滅することになる。

説明板f:id:shinsaku1234t501:20170606173732j:imageなお、ほとんどのブログはこの長久手における敗戦を以って落合家を締めくくっているが、安親の長男頼親・その嫡男宗親が新田開発に従事したことが知られているので紹介する。

安親の孫にあたる宗親は、俗に言う「入鹿六人衆」として寛永5年(1628)からの入鹿池(愛知県犬山市)築造工事に関わった功により、寛永11年(1634)、尾張藩から新田頭に任命された。さらに、寛永17年(1640)には小牧原上原新田10石を賜ると同時に苗字帯刀を許された。即ち、安親が長久手合戦で負けたことにより、上末城は廃城、落合家は帰農したとされる。しかし、頼親・宗親父子が周辺の開発に尽力したことで、宗親が尾張藩から苗字帯刀を得たという事実は、それまで落合家が不遇の状況にあったことを示す。長久手の敗戦から落合家の再興までに56年かかった計算になる。

空堀f:id:shinsaku1234t501:20170606173909j:image土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606174009j:image城址南側に隣接している陶昌院は、重松秀村(尾張二宮 大縣神社祠官)の子孫とされる落合右近将監勝正が永禄7年(1564)に創建した菩提寺である。(完)

愛知県小牧市大字上末中小路 久保山陶昌院 右から落合宗親墓・落合勝正墓・落合安親碑f:id:shinsaku1234t501:20180610203451j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223032421p:image