侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

宍戸城(茨城県笠間市)

宍戸城は鎌倉・安土桃山・江戸に大きな転機を迎える。

宇都宮宗綱の四男である八田知家が、源義朝の没落と頼朝・頼家の幕府体制に歴仕する中で常陸守護職に任じられる。

笠間市平町 新善光寺址(中央右 八田知家墓、左 宍戸家政墓)f:id:shinsaku1234t501:20170519181809j:image長男の知重こと常陸小田氏を宗家とし、次男の有知が美濃伊自良氏・三男の知基が下野茂木氏と分派する中、四男の家政は常陸宍戸を領す。こうして、家政が築いたのが宍戸古館である。

笠間市友部町橋爪 宍戸古館土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200705j:imageまた、この宍戸氏からは足利尊氏に従った功により安芸に下向して、のち毛利元就の縁戚になる安芸宍戸氏も派生する。
室町・戦国時代は宗家でもある小田氏と連携しながら佐竹氏と勢力争いを繰り広げるが、のち服属した。関ヶ原合戦後、宍戸義長は佐竹氏の出羽秋田移封には従わず土着したが、その一族の中には秋田に移住する者もいた。
代わって宍戸に移封されたのは、関ヶ原合戦で東軍に属したにも関わらず、出羽秋田20万石から太閤蔵入地を没収され、常陸宍戸5万2,440石に減封となった秋田実季である。これにより現在地に城郭としての宍戸城が整えられた。

実季は大坂の陣にも従軍するなど目立った問題行動があるようには見えなかったが、なぜか寛永7年(1630)、伊勢朝熊への配流に処せられる。出羽以来の家臣間の対立など不安定要素があったらしいが、特に嫡男俊季との不和が大きな原因と思われる。

というのも、実季正室(俊季生母)である円光院は細川昭元の娘である。すなわち、細川昭元織田信長の妹であるお犬の方との間に生まれた女子である。もっと言えば、時の大御所、徳川秀忠正室崇源院と円光院は、ともに織田信長の姪であり、従姉妹同士にあたる。

この人間関係を踏まえた上で、実季と俊季の親子不和を考えた場合、幕府の判断は崇源院の血筋に繋がる俊季の家督相続を優先する可能性が大いに考えられる。それゆえ俊季の家督相続の障害となる実季を排除する必要があった。

その証拠に、実季が配流になりながらも宍戸藩自体は改易にはならなかった。当然、俊季が継ぐために宍戸藩は残さなければならないからである。

笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城址f:id:shinsaku1234t501:20170519181831j:image笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城本丸土塁f:id:shinsaku1234t501:20170519181900j:image笠間市平町 宍戸城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200803j:imageこうして幕命により家督相続した俊季が、正保2年(1645)、陸奥三春5万5,000石に移封されると、天領の時期を経て、天和2年(1682)に徳川光圀の弟の松平頼雄が水戸支藩として1万石で入封した。(宍戸陣屋)

笠間市土師 宍戸陣屋表門f:id:shinsaku1234t501:20170519181958j:image幕末の元治元年(1864)、9代藩主頼徳の頃、水戸で蜂起した天狗党の鎮圧に失敗し、切腹及び改易を命じられるという悲劇もあった。

笠間市大田町 松長山成就院養福寺 宍戸松平頼徳墓f:id:shinsaku1234t501:20211224014237j:plain慶応4年、頼徳の父で8代藩主だった頼位が新政府の命により再相続して立藩することになった。(完)f:id:shinsaku1234t501:20240223032123p:image