侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その30

大坂夏の陣の後日譚として、直後におこなわれた京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)破却が挙げられる。

後水尾天皇の勅許を得た家康は「正一位豊国大明神」という吉田神道の神号を剥奪したのみならず、神社及び豊国廟の破却に乗り出した。

滋賀県長浜市早崎町 巌金山宝厳寺唐門(豊国廟極楽門を移築)f:id:shinsaku1234t501:20180409191612j:image秀吉の正室高台院の懇願で社殿はかろうじて破却を免れたものの、以後、参道は封鎖されたという。現在の豊国神社境内に高台院が必死に守った馬塚が遺されているが、これこそ江戸時代を通じて秀吉の本当の墳墓とされてきたという。

京都府京都市東山区高台寺下河原町 鷲峰山高台寿聖禅寺 霊屋(北政所葬地)f:id:shinsaku1234t501:20180513112544j:image「神社や墓まで破壊しなくてもいいのではないか」という後味の悪さを覚えるのは尤もではあるが、「吾妻鏡」の源頼朝を模範とする家康からすれば、平家だけでなく奥州藤原氏義経や範頼ら将来の禍根となりうる可能性は片っ端から葬らねばならないとする仮想敵の掃討こそ最大の課題である。
徳川家の最大の対抗馬として君臨し続けた豊臣家を全否定することは、いわば幕府一強体制を公然の事実にするための力ずくの総仕上げと言える。当然、中途半端は許されない苛烈なまでの仕置を要する。それは豊臣家を奉じることを許さないのではなく、奉じるべき豊臣家がそもそも存在しないという現実を大名家や諸国の牢人に突きつけることを意味する。もちろん、その動きに豊臣恩顧の誰かが反論を唱えたという事実はない。

それでも、馬塚は「国泰院俊山雲龍大居士」という戒名を授けられた秀吉の供養墓として、江戸時代を通じて庶民に崇められたとする説があるが、定かではない。

対する家康は没後、南光坊天海の主張する山王一実神道により「正一位東照大権現」の宣命を受ける。後水尾天皇はその生涯において「豊国大明神」を剥奪する一方で、「東照大権現」を勅許したことになる。

京都府京都市東山区茶屋町 豊国神社 馬塚f:id:shinsaku1234t501:20180513120015j:imageまた、三代将軍家光が許可していた豊国神社再興案も酒井忠世らの反対で却下された。

ここまで豊臣家を亡き者にした徳川家を悪辣と考えるのは簡単だが、新しい支配体制を浸透させるために前時代を否定するのは、明治維新にも見られることであって、決して珍しいとは言えない。

但し、関ヶ原合戦の恨みが原動力となって薩長が討幕に邁進したとするのは適切とは言いがたい。薩摩藩島津斉彬・久光兄弟にしても幕政改革を望んでいただけであり、西郷隆盛も第一次長州征伐では幕府軍参謀を務めている。即ち、薩摩藩における討幕運動は成り行きでしかない。長州藩吉田松陰系列の木戸孝允高杉晋作が討幕を目指す一方、その反対派である 俗論党が藩内の要人を粛清してまで幕府に恭順の姿勢を表した時期もある。また、往時には豊臣恩顧だったはずの黒田家・浅野家・細川家・蜂須賀家・前田家なども、決して討幕の主戦力にはなっていない。それどころか、上杉家に至っては当初、奥羽越列藩同盟の一員として幕府側に就いている。幕末の一連の動きが豊臣家復権関ヶ原合戦の雪辱ではないことは容易に理解できよう。

世に「歴史は勝者によって作られる」という。この言葉自体は否定できない。しかし、敗者が全く歴史を残さなかったわけでもない。江戸時代を通じてタブー視されてきた豊臣家ではあるが、こんにちの我々が秀吉や秀頼の事績を知ることができるのは、何かしらの史料や伝承が連綿と伝えられてきたからに他ならない。表立っては「黙して語らず」を貫いた豊臣家臣団が伝えた可能性も大いにある。

最後に明治以降の豊臣家の復権を紹介する。以下はその主な遍歴である。

●慶応4年(1868)閏4月、大阪行幸に際して明治天皇が豊国神社再興を沙汰したことに端を発し、翌月には鳥羽伏見戦没者が合祀される。

明治6年(1873)、別格官幣社に列せられる。

明治8年(1875)、京都東山に社殿を建立。

明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡地に遷座して現在に至る。

明治30年(1897)、境外地である阿弥陀ヶ峰に豊国廟として五輪塔が建立される。

明治新政府明治6年(1873)6月9日、日光東照宮別格官幣社に列すると同時に、主祭神である家康の左神として豊臣秀吉、右神として源頼朝を配祀した。

また、日光東照宮同様、久能山東照宮にも信長と秀吉が相殿として祀られている。(完)