侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その29

そもそも、合戦や戦争はどちらも正義を主張して譲らないからこそ発生するものである。どちらかだけに絶対的正義があるという事例などほぼ無い。逆説的に言えることは、豊臣家臣団の盛衰を的確に把握するためには、むしろ敵方の家康、もしくは彼に与した豊臣恩顧をしっかりと理解することが必要である。

にもかかわらず、三成の一途な忠義や真田信繁の武勇に一喜一憂しているだけでは、いつまでも「豊臣哀れ」・「家康憎し」という薄口な歴史観にしがみつくことになる。この点については、小説家の想像のほうが卓越、且つ先行し過ぎた感があり、考古学のように科学的傍証に基づいて慎重に議論されている分野よりも遥かにデフォルメされた俗説が罷り通っている。

例えば、家康と同時代の覇権を争った前田家・織田家・上杉家・島津家・毛利家・伊達家・北条家などは大名として命脈を保ち、没落したとはいえ武田家・今川家・大友家・三好家なども徳川家旗本として家名を伝えた。

一方、徳川家の姻戚にまでなった清正の加藤家は、寛永9年(1632)、忠広の代に改易された。福島家も元和5年(1619)に広島城の修築手続きの不備を問われて信濃高井野へ減封された。追い討ちをかけるように、寛永元年(1624)には正則没後の手続き不備を理由に改易されたものの、正利の代に旗本として再興された。

ちなみに、どちらの改易も家康没後のことである。即ち、生前の家康が清正や福島ら外様大名を特に問題がない限り、それなりに遇してきたことを物語る。それが改易に至るのは、二代将軍秀忠の冷徹なまでの地固め、三代将軍家光の独裁体制確立という次のステージが控えていたことを窺わせる。

即ち、初期江戸幕府の大名政策は家康が慰撫、秀忠が整理、家光が支配と、さながら三段階で完成した感がある。ゆえに、徳川三代という長期的な見方が不可欠と言える。

そう考えると、関ヶ原合戦で敵対した毛利家や島津家、上杉家などを家康が取り潰さなかったのは、秀吉から直接恩恵を受けてまだ存命中の諸大名をいたずらに刺激しないための一策であることが理解できよう。依然、大坂城豊臣秀頼が崇敬を集めている状況で、他の大名家と事を構えるのは得策ではない。家康は初代将軍、のち大御所として君臨しながらも、むしろ外様大名に細心の注意を払っていたと思われる。その深謀遠慮があったればこそ、大坂夏の陣後、代替わりした大名家の帰趨を見定める中で改易を断行した秀忠、さらに跡を継いだ家光の盤石な支配体制が到来したと考えるのが妥当である。

また、関ヶ原合戦から大坂の陣までの時期は、家康につき従ってきた武将中心の政治形態から土井利勝松平信綱酒井忠世などに代表される政策ブレーンが育成されるプロセスでもあった。軍事を以って力ずくで滅ぼす戦国の世から、幕府の権威を以って大名を統制する世の到来を模索する雌伏の時期とでも言うべきか。今に伝わる「元和偃武」とは、その支配体制が確立したというよりも、始動したことを示す言葉と解釈できる。

かの司馬遼太郎氏が著書の中で「家康の名家好き」と評した通り、家康は大名家や名臣の家柄を何かしらの形で残した。それは関ヶ原で西軍に属した大名家もまた然りである。とすれば、減封や転封はあるにせよ、豊臣家が柔軟な対応を見せてさえいれば存続しうる可能性はあったと考えられる。
にも関わらず、豊臣家は完膚なきまでに家系を絶たれたのである。

和歌山県伊都郡高野町高野山 奥之院 豊臣家墓f:id:shinsaku1234t501:20170919201931j:image