侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その28

さて、同時代を生きた徳川家康だが、ただ座っていたら棚からぼた餅が落ちてきたわけではない。信長との同盟を堅守し、信玄とともに旧主今川を滅ぼし、秀吉に楯突くことなく常に支え、豊臣家を滅ぼしたのちに朝廷・公家・寺社までも制した。そこには、忠義、下剋上、誠意、謀略、軍事力、政治力、保身など上記の人物たちと変わらないキーワードが認められる。むしろ、同時代の人物と同様か、それ以上の執念と労苦、思考力・行動力を伴った人生である。「常在戦場」とは、彼の人生かもしれない。
にもかかわらず、なぜか彼だけが屈指の悪役にされるのは明治以降の曲学史観と判官贔屓に代表される善悪のレッテル貼りでしかない。なるほど英雄譚は血湧き肉躍るストーリーだが、歴史の部分的切り取りでしかない。しかし、残念ながらむしろその部分こそ誇張して伝えられている。

静岡県静岡市葵区駿府城公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170919203747j:imageちなみに、小説やドラマなどで主人公の武将が恒久平和を追い求めるような善人の設定をよく見かけるが、戦国乱世の時代に庶民まで視野に入れた平和を追求した武将など、おそらく唯の一人もいないであろう。

戦国大名と称される領主層の指す平和とは、自身が頂点に君臨し、権力を以って領国に号令することを意味する。また、家臣層からすれば合戦は手柄を立て、自身をアピールする立身出世の好機でもある。戦乱が失くなることは必ずしもありがたいことではない。大坂の陣の発生要因はその顕著な例でもある。

仮に秀吉没後の豊臣家が天下を統べることができたとしても、それは豊臣家隆盛のための天下でしかなく、三成ら家臣もそうなるように大名や庶民を仕置・統制したことであろう。太閤検地刀狩令バテレン追放令など代表的な施策を見ても、その原点は秀吉個人への集権化という発想でしかない。当時の日本に存在しない民権思想で平和を考えてはならない。

また、人によって解釈が違うと思うが、私は「豊臣政権」という歴史用語にすら違和感がある。厳密に政権と言える権能や機関を有していたか疑問だからである。

この「政権」を巡る解釈からすれば、家康は諸大名を率いて豊臣政権を破壊し、新たに徳川政権を樹立した革命家のような存在となる。一方、豊臣政権ではなく、豊臣家をただの私的な存在、もしくは諸国武家の中の盟主と解釈すれば、戦国の習いとして徳川家が取って変わっただけの現象である。

家康の江戸幕府とて、当初は戦国の気風よろしく徳川家、もしくは武士階層中心の法整備や町造りをおこなってきた。そして、豊臣家を滅ぼした次の段階で着手したのが朝廷・公家・寺院の規制であった。もっとも、町民や農民にまで政策が及ぶには、知っての通り家綱・綱吉の代まで待たねばならない。

長きに亘り豊臣家臣団を語ってきてあらためて思うことは、後世の我々がとやかく言うよりも、当事者たちがすでに答えを出していることである。後世の我々は、つい葉隠武士道の感覚で忠義を基準に物事を考えがちだが、そもそも葉隠武士道の成立は江戸中期である。もちろん、戦国・安土桃山時代にも時代に合った倫理観があったことは否定しないが、忠義や正義という興奮材料もさることながら、地に足がついた現実も選択されていたのである。