侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その26

では、大坂方はどうあるべきだったのか。これはあくまでも私見である。

確かに、堅固な城郭と豊富な蓄財、天下人太閤秀吉というブランド力を頼りにするから、たとえ幕府を開いたとはいえ、徳川家とは別格の位置、いやむしろ上席の待遇にあって然るべしと考える根拠になったのかもしれないが、それゆえに大坂方首脳が且元の腐心や有楽斎の危惧を容れられなかったのは、戦国というパワーバランスの時代に反する動きだったと言わざるをえない。

「いざとなれば一戦仕る」という根拠のない強気が理性的判断や損得勘定をさえ受け入れない状態が現出したのである。

結論的な言い方になるが、秀吉の死を経て豊臣家臣団は徳川家臣団になるべく近づいていった。もちろん、その多くは外様の扱いでしかない。反対に関ヶ原合戦で西軍に属した三成らは豊臣家臣団として滅び、大坂の陣の主力は大野治長真田信繁ら一部を除いて豊臣恩顧とは言えない勢力となっていた。

大坂城からの移封」、「淀殿の人質」など家康からの条件は、さぞかし屈辱的に映ったであろうことは察する。しかし、それを受け入れてでも生き残るのが豊臣恩顧に応える大坂方の姿だという言い方もあって当然だと思う。

勘違いしがちだが、のちに確立される鎖国政策(自由交易の禁止)や参勤交代、禁教令など幕府発信の施策に対応した大名家のほうが圧倒的に多いのである。即ち豊臣家が幕府に従う努力をしなかっただけとしか言いようがない。

後世の我々が代々続く老舗や秘伝を伝える名家、ひいては皇室に畏敬の念を抱くのは、代々山あり谷ありの苦節に耐えてもなお、現在に伝わっているからである。そういう意味では豊臣家も生き残るべきであった。

また、周囲も残そうと知恵を絞るべきであった。意地にしがみついて合戦に及んだのは関ヶ原だけでよかったはずである。関ヶ原合戦に学ぶところがなかった結果、滅亡をかけた大坂の陣になったのである。

大坂方の論理からすれば難癖をつけて滅亡に追い込まれたとする大坂の陣も、徳川家の論理からすれば幕府という支配体制に従うことを拒んだがゆえに合戦という形の改易に処したに過ぎない。

実際、往年の秀吉も同様の形で地方の名族を飲み込んできたはずである。卑賤の出と言われる秀吉からすれば、全ての大名が家格が上であると言っていい。時に所領安堵をし、時に取り潰しをしながら天下を平定したのは他ならぬ秀吉である。

となれば、秀吉がかつての主筋である織田家を家臣にしたのと同じように、家康が豊臣家を家臣にしたところで不思議はない。それが時勢というものである。

裏返しの表現をすれば、徳川家に従うことを潔しとせず滅亡の道を選んだ豊臣家を是とするならば、徳川家の下で存続の道を選んだあまたの大名は皆、卑怯者か、世渡り上手という表現になってしまう。

大阪府北区太融寺町 佳木山宝樹院太融寺 淀殿供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170929212332j:image歴史の不思議とは、まさにここにある。元禄赤穂事件における浅野長矩の刃傷事件については、吉良の虐めに耐えかねたから気の毒という同情論と同じくらいに、我慢できずに刃傷に及んだ結果、改易になったことで家臣を路頭に迷わせた浅慮の殿様という批判もある。淀殿豊臣秀頼親子についても、本来、同様の批判があってしかるべしと思うが、なぜかこれについては家康が一方的に悪者となる。

秀吉が一代で極めた豊臣家を、いや大坂城を、譲れない意地とはいえ、二代目が滅亡に追いやった、と言ったら厳しいだろうか。会社経営になぞらえれば退くを潔しとせず、規模縮小すらせずに、倒産して社員を路頭に迷わせる二代目社長をかわいそうと一概には言えないのと同様である。