侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その25

しかし、これらの事実が、ともすると片桐且元の徳川内通説や織田有楽斎の徳川スパイ説となるのは、史料や彼らの立ち位置に基づいていないがゆえ、いささか本人たちが気の毒にさえ思える。むしろ、彼らこそお家存続の落とし所を探っていた最後の豊臣恩顧だった可能性がある。内通説やスパイ説は、彼らが抱いていたかもしれないお家存続の可能性を全否定するほど台無しなシナリオである。もし、且元や有楽斎らが内通者という悪名を背負うのならば、大坂の陣の歴史的結果も踏まえて史料を提示してもらいたいものである。

もちろん、家康と且元では役者が違う。果たして且元を内通者に仕立てたのが大坂方なのか、それとも内通者の疑いをかけられるように仕向けた家康なのかは解釈次第である。

また、有楽斎が真にスパイであるならば、冬の陣における大坂方の動きはある程度、幕府軍に筒抜けであったと考えるべきであり、真田丸相手にあれだけ苦戦した意味が説明できない。なにせ、冬の陣の和睦が成立したのち、和睦推進派である大野治長が弟の治房に暗殺されかけたとする一件があるほど、城内は沸騰していた。平和や穏健という議論がおよそ容れられる状況になかったことを考えれば、且元や有楽斎が本来の味方であるべき大坂方から敵視される環境にあったことは認めざるをえない。

こうして、彼らを逐って幕府軍に対峙したのが、豊臣家への忠誠や恩顧よりも、どこか違った目的をもった牢人衆であったことは誠に以って皮肉である。

少なくとも、当時の大坂城内は秀吉の頃の雰囲気ではない。「一戦もやむなし」を主張する直臣や牢人衆の発言が日増しに強くなる中で、古参の家臣が追いやられていく状況は注目に値する。

例えば、歴史的結果論から朝鮮出兵や太平洋戦争などを指して「なぜあんな無謀な戦争を始めたのか?」という疑問が呈されることがあるが、答えは極めて単純かもしれない。それは、開戦を望む雰囲気や世論が非戦論より強かった、もしくは多かったに他ならないのである。この論理に当てはめれば、方広寺鐘銘事件などは家康が巧みに仕掛けたと見る以上に、むしろ大坂方が積極的に迎撃したと考えるほうが自然ではなかろうか。緒戦において、ある程度の戦果を挙げれば、幕府軍として従軍している豊臣恩顧の大名が寝返るのではないか、もしくは諸国で大坂方としての挙兵が促されるのではないか、という期待や自信は当然あったと思われる。

非戦、ないしは慎重論者の片桐且元大野治長らが本来の味方であるべき大坂方から襲撃された事実を見ても、且元や有楽斎らが退去していくには相応の背景があった。

静岡県静岡市葵区駿府城公園 駿府城東御門・二ノ丸巽櫓f:id:shinsaku1234t501:20170713160754j:image家康が再度の大坂攻めを望んでいた可能性は否定しないが、有楽斎がいなくなった大坂方もまた、合戦を請い願う牢人衆の望むところとなった。

冬の陣は方広寺鐘銘事件などに代表されるように家康が仕掛けたイメージが強いが、夏の陣はむしろ大坂方が手繰り寄せた感さえある。但し、さきほども述べた通り、戦局次第で豊臣恩顧の大名が寝返るのではないかという期待を秘めていた冬の陣に比べ、孤立無援の裸城で戦わざるをえない夏の陣は玉砕の覚悟に近い。それでも、牢人衆にとっては自身の能力や意地を世間に認めさせるには合戦が不可欠であり、臨戦体制を阻害する非戦論者はさぞかし目障りであったに違いない。

大野治長渡辺糺真田信繁のように豊臣家に仕えた履歴がある者はともかく、その他の牢人のモチベーションが豊臣家第一義であったかは甚だ疑わしい。しかし、これはこれで十分に家康を苦しめた。

大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目 安居神社 真田幸村戦没地碑f:id:shinsaku1234t501:20170720193330j:image