侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その24

また、淀殿の後見役として徳川家との和平を第一に考えていた慎重論者の織田長益こと有楽斎でさえ、夏の陣に突入していく主戦論の高まりの中で「もはや城内の誰も自分の意見を聞かない」と報告することで、家康の許可を得て大坂城を退去した。

家康の許可を得て大坂城を退去する、すなわち有楽斎は家康と何かしらの連携を以って大坂城内にいたことになる。決して不思議なことではない。どの大名家においても様々な大名と連絡を取る外交担当の家臣(取次)がいたことを考えれば、有楽斎は豊臣家中における対徳川家の外交担当だったのかもしれない。もしくは、徳川家の負託を受けた豊臣家に対する目付のような存在とも考えられる。確かに家康は自身の子息だけではなく、有力な譜代家臣にも直臣を付家老として派遣しているのだから、付家老のような働きを負わされていたのかもしれない。

もっとも、有楽斎の家系だけでなく、信雄や信包(大坂冬の陣の2ヶ月半前に病没)も大坂城に常駐していた。理由は簡単である。淀殿織田家の血筋であることに他ならない。

元来、有楽斎は秀吉の御伽衆であったが、秀吉死後に徳川家康前田利家の間に緊張が走ると徳川屋敷の警護に駆けつけたり、関ヶ原合戦では東軍に属して蒲生頼郷(石田三成家臣)を討ち取るなどの功により、大和国内3万2千石を賜ったほどの一貫した親徳川派である。

その有楽斎が自らの判断で大坂城を脱出すると言う。家康は片桐且元大坂城退去をもって冬の陣を決意したように、有楽斎の退去をもって夏の陣勃発を確信したことであろう。

大河ドラマ真田丸」の影響もあって、有楽斎を徳川家から送り込まれたスパイのように喩える向きもあるが、それを言ってしまったら、同じように冬の陣に際して大坂城を退去した信雄も疑うべきである。

むしろ問題なのは信雄といい、有楽斎といい、相次いで大坂城を退去している事実から察するに、従妹にあたる淀殿を見限ったと見るべきなのか。それとも、秀吉によって一大名に零落させられた織田家一門として豊臣家とともに滅亡する道を嫌ったのか。豊臣家と徳川家の和平が不調に終わったことで諦めにも似た境地に至ったのか。

 何度も言うが、裏切りは決して褒められた行為ではないとしても、保身はやむを得ない仕儀である。信長に連なる織田家の命脈を残すために彼らが大坂城退去を選んだのなら、それは間違いとまでは言えないはずである。ましてや、有楽斎は利休十哲に数えられる当代きっての茶人である。文化人として流派を伝える使命も極めて重要である。

また、系図からしても有楽斎にとって豊臣家の淀殿は従妹だが、将軍 徳川秀忠正室である江(達子)も同じく従妹である。天下を二分する両家の衝突に少なからず板挟みの思いはあったと考えるべきであろう。

京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町 東山建仁寺塔頭正伝永源院 織田有楽斎f:id:shinsaku1234t501:20230319082311j:image一方、有楽斎の次男である織田頼長は、父と対立するほどの主戦論者で片桐且元襲撃の一味でもあった。自分が大坂方の総大将になると豪語したかと思うと、織田信雄を総大将に擁立すると主張したり、次第に同じ主戦派でさえ持て余すような扱いとなり、やはり夏の陣を前に大坂城を退去した。