侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その22

さらには、豊臣家にあってもその踏み絵を踏んだ人物が2人いる。

徳川家の傘の下で豊臣家を存続すべく奔走し続けた片桐且元は、大坂方から裏切者として命を狙われた挙句、幕府軍に加わった。
大坂冬の陣では三浦按針経由で幕府が入手した最新鋭の英国製カルバリン砲を大坂城天守めがけて撃ち込む役目を担い、夏の陣でも徳川秀忠麾下として岡山口に従軍した。最後の局面において淀殿豊臣秀頼らの助命嘆願をしたとされるが、ともかくも大坂城の山里曲輪に潜んでいることを秀忠に報告したことで最悪の結果を招いてしまう。

大阪府大阪市中央区大阪城 大阪城公園 豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地碑f:id:shinsaku1234t501:20170705154555j:image夏の陣終結から20日後、且元は持病により病死したが、一方で憤死ともとれる自殺説もある。

先にも述べたように、三成や長束は計数管理を得意とする官吏であって、外交交渉を得意とはしていなかった。そのせいか最終的に軍事力に訴えた。朝鮮出兵の講話交渉にあたった経験がある小西行長関ヶ原で刑死した。家康との関係を見据えながら堂々たる交渉を展開しうる可能性があった大谷吉隆も戦死した。

関ヶ原直後には「西軍が勝手に挙兵しただけで預かり知らぬこと」と事なきを得た豊臣家ではあったが、ここにきて脇を支える譜代の家臣不足というボディブローが着実に効いてきた。

こうして彼らの死の結果、繰り上げ当選のような形で豊臣家存続の前面に立たされた且元とて賤ヶ岳七本槍に名を連ねる武人であって、決して外交の専門家ではない。権謀術数に対応できる器用さもなく、槍働きで頭角を表したのちは地道に奉行職を歩んできただけである。

片桐且元画像f:id:shinsaku1234t501:20180409193956j:image天正14年(1586)には京都方広寺建立の作事奉行、街道整備の道作奉行、浅野長吉や福島正則らとともに検地奉行、朝鮮出兵においては現地に渡り、軍船の手配や街道整備を担当した。

関ヶ原合戦では大坂城にあって西軍に加担したものの、戦後、長女を人質に差し出したことで不問に付されたどころか、家康から大和竜田2万4千石に任じられた。

その後も、本多正純板倉勝重大久保長安といった徳川家の吏僚とともに検地や治安維持に従事したところを見ると、豊臣家と徳川家の共同作業における調整的役割にあったと思われる。

一方で、秀吉の七回忌・十三回忌などの豊国社大祭を総奉行として仕切り、秀頼と家康の二条城会見の実現にも奔走した。常に徳川家との関わりが認められるものの、関ヶ原合戦後から大坂冬の陣までの時期における豊臣家と徳川家の共存共栄に寄与したことは特筆すべきと言える。その人物が一転して家康に翻弄され、豊臣家では不甲斐ない・主導権を握れないなどの批判の末に裏切者扱いを受ける苦悩の後半生を辿ることになる。

滋賀県長浜市早崎町 巌金山宝厳寺 片桐且元手植えのモチの木f:id:shinsaku1234t501:20180409190855j:image実は大坂冬の陣より2ヶ月半ほど前の慶長19年7月17日、大坂城淀殿の後見役を務めていた織田信包が吐血の上、急死した。この時、且元による毒殺という噂が城内に流れたという。且元がいかに城内で疑われていたことを裏付ける話である。