侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その21

唯一、馳せ参じた豊臣恩顧の動きを紹介するならば、増田長盛盛次父子と言えるかもしれない。

愛知県稲沢市増田南町 八幡社 増田長盛邸址碑f:id:shinsaku1234t501:20170705141734j:image関ヶ原合戦において西軍に属したため、増田家は改易となり、長盛は高野山での蟄居を経て武蔵岩槻に配流、長男で庶子の長勝・次男で嫡子の盛次らは叔父(長盛の弟)長俊の養子となることで連座を免れた。それどころか、盛次はのちに徳川家康、さらにその九男で尾張名古屋城主となる義利(のちの義直)に仕えることになった。

大坂冬の陣では徳川義利隊として参戦したが、大坂方の勝報に喜び、幕府軍の勝報に機嫌を損ねる様子を小耳に挟んだ家康が「さすがは増田長盛の倅」と苦笑したエピソードがある。夏の陣に際しては、父長盛の了解を得た上で、「豊臣恩顧としての忠義を貫きたい」と主君義利に申し出たところ許された。こうして堂々と大坂城に身を投じる。

大坂方への参陣を正々堂々と申し出て退去する盛次、徳川家を敵に回す盛次の決意を許した父長盛、盛次の忠義を認めて送り出した徳川義利もまた武士と言えよう。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城復元天守f:id:shinsaku1234t501:20170712200905j:image慶長20年(1615)5月6日、父長盛がかつて烏帽子親を務めた長宗我部盛親隊に属し、八尾で藤堂高虎隊と合戦に及んだ。皮肉なもので、長宗我部隊の殿軍を務める増田盛次に襲いかかる藤堂隊には、元増田家の家臣で槍術を指南してくれた渡辺勘兵衛がいた。享年は不明だが、藤堂隊の磯野行尚(磯野員昌の孫)に討ち取られた。

一方、武蔵岩槻で蟄居していた長盛は、大坂冬の陣直前に岩槻城主の高力清長から「豊臣恩顧として大坂に入城することを許す」という家康の言葉を伝えられた。実は大坂城に間者として送り込むためだったという。これに対して、「家臣も持たぬ身の上で大坂城に入っても何もできることはない。かえって太閤殿下に申し訳ない」と言って動かなかった。

夏の陣終結直後の5月27日、長盛は武蔵岩槻の配所で自害するのだが、やはり盛次が大坂方に同心したことの責任を負わされた家康の命令と伝わる。

大坂から遠く離れた関東の地で主君秀頼に殉じた忠義からのものなのか、自分の代わりに大坂方として奮戦した盛次の後を当然のように追ったものなのか、豊臣家を滅亡にまで追いやった家康への憤死なのか、はたまた豊臣家が滅亡したことを従容と受け止めた静かな死なのか、どれを信じるかで真相は全く違ってくる。

埼玉県新座市野火止3丁目 金鳳山平林寺 増田長盛f:id:shinsaku1234t501:20180121011825j:image盛次のように忠義を貫くことができた者がいる一方で、保身や諦めで動かなかった豊臣恩顧もいる。もっとも、動かなかった長盛を見ても分かるように、実際にとった行動と豊臣家への忠心を同列に語るわけにはいかない。関ヶ原の時は、東軍に属した武断派、西軍として減封になった武将、いずれも石田三成を理由にすることができた。

しかし、生き残った豊臣恩顧はすべからく大坂の陣において踏み絵を突きつけられた。そして、苦渋の中でその踏み絵を踏んだと考えるべきであろう。