侍を語る記

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豊臣家臣団 その20

また、関ヶ原合戦で西軍寄りの動きをした蜂須賀家政に至っては、大坂方からの勧誘の使者に対して「無二の関東方」と称して断り、家康にその密書を提出するほどの旗幟鮮明ぶりを見せる。

薩摩の島津家久にしても大野治長から3回にわたって同心を要請されたが、「関ヶ原合戦で西軍に与したことで豊臣家への恩は返した。今は敵対したことを許してくれた家康に恩があるゆえ、脇差は受け取れない」として、進呈された脇差を受け取らなかった。さらに、3度目の使者を捕まえて家康に突き出したという。

徳川秀忠の次女 珠姫を娶ることで徳川家と姻戚関係にある加賀金沢の前田利常もほぼ同様に書状を開封せず、使者とともに家康に突き出した。

石川県金沢市丸の内 金沢城石川門f:id:shinsaku1234t501:20200506183310j:image関ヶ原合戦で西軍総大将を務めた毛利輝元については、佐野道可と名を変えた家臣、内藤元盛を秘密裡に大坂城に入城させたとする逸話がある。

大坂夏の陣終結後、幕命を奉じた毛利家により捕縛され、柳生宗矩の取調べでは毛利家との関与を否定し続けた道可だったが、のち自刃する。

一方、輝元は国元において道可の子、内藤元珍・粟屋元豊らを幽閉し、自刃に至らしめ内藤家を家名断絶とした。これらの傍証から佐野道可の大坂入城は輝元の命によるものであり、計画失敗と見るや幕府の追及を恐れて道可の子を口封じしたとする説が流布する。

しかし、この逸話は信憑性に乏しく、実は内藤が数年前に毛利家を追放された一浪人としての入城であって毛利家の関連はないという研究結果が発表されている。

いずれにしても以上から結論付けると、徳川家が恐れ、大坂方が期待した豊臣恩顧という存在は、大坂の陣では全く機能しなかったと言っていいだろう。武士道や大義名分に殉じなかったと非難するのは簡単だが、この時代は命を的にしている分、はるかに現実的思考が優先された時代でもある。「ご先祖様」とか「家」という概念を優先した場合、非情な判断で豊臣家を捨て徳川家に従う選択をしたとしてもやむを得ない。

「弱肉強食」というのは、弱きが強きに呑み込まれてしまうことを指すが、裏返しは強きに就いてさえいればお家は残る、それが武士の世のセオリーである。

また、豊臣家が秀吉から秀頼の代に移行したように諸大名も代替わりを果たした。蜂須賀や前田、黒田のように父の代は秀吉の帷幕で活躍した家でも、子や孫の代であからさまに徳川家の勢いを見せつけられた状態では忠義一辺倒の精神論は通用しない。大名自身がそう思う以上に、その老臣たちがお家存続のために趨勢を説いたであろう場面は大いに想像できる。