侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その19

関ヶ原合戦からわずか3ヶ月後の12月19日、家康は以前に関白を歴任したことのある九条兼孝の関白再任を奏上した。秀吉・秀次と続いた豊臣家の関白職世襲のような雰囲気を打ち消す目的かもしれない。同時に、関ヶ原の勝者 家康が朝廷の任官において発言力を持っていたことが窺える。となると、三成が小早川秀秋に関白職就任を約束したのは、どのような立場から発したものなのか、もしくはどのような根拠や保証に基づくものだったのだろうか。

さらに慶長8年(1603)2月12日、家康は征夷大将軍に任命された。それまでの「豊臣家康」ではなく、従来から名乗っている「源家康」としてである。明確な豊臣家との決別が見える。しかし、家康とて豊臣家を潰そうと目論んでいたわけではなく、秀頼の任官も進めている。但し、秀頼の任官の前後には徳川秀忠も任官を果たしている。

そして、慶長8年までは家康のほうが大坂城に出向いて秀頼に年賀御礼をおこなっていたが、慶長13年(1608)からは秀頼の使者が家康の元へ年賀御礼をおこなうのが通例となる。こうした趨勢の中で、豊臣家臣団も例外なく徳川・豊臣両家に対応していった。

大坂の陣の時、清正が生きていたら大坂方に就いていただろう」というのはタラレバに過ぎない。実際、大坂の陣において福島正則加藤嘉明黒田長政平野長泰ら豊臣恩顧が、誰一人として大坂方に身を投じなかったことが物語っている。

福島正則は大坂方からの勧誘の使者には断固として会わなかった。すなわち、密書の受け取りさえ拒否したのである。一方で、大野治長から福島家大坂蔵屋敷に蓄えてある兵糧借用の申し出があった際は容認した。一説には、次男の忠勝を幕府軍として従軍させる代わりに、自ら江戸留守居役を申し出たともいう。

加藤嘉明は正則と同じく江戸城留守居役を命じられたことで、豊臣恩顧の自分たちが徳川家から睨まれている事実を悟った。但し、夏の陣には秀忠麾下として出陣した。

黒田長政は徳川与党のつもりだから、正則や嘉明と同列に豊臣恩顧と疑われるのは心外な部分もあっただろう。ひょっとしたら、秘密裏に彼らの目付役でも命じられて江戸留守居役に甘んじたのだろうか。はたまた、後藤基次明石全登ら旧臣が大坂城に入ったことが影響したのか。但し、夏の陣には秀忠麾下として出陣した。

特筆すべきは、秀吉直臣から徳川家旗本になっていた平野長泰が大坂方に同心したい旨を家康に告げたと言うが、当然許されるはずもなく、やはり江戸留守居役として留められた。家康相手に豊臣家への忠義を正々堂々と主張した勇気を称えるべきか、現在の主である家康の許可を得た上で大坂城に入りたいというバカ正直なまでの筋道と首をかしげるべきか解釈が難しいが、家康としても彼の豊臣家への忠義を理解するところがあったのか、その後も長泰を咎めるようなことは無かった。

京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町 深草山宝塔寺 平野長泰夫妻墓(右 平野長泰墓、左 平野長泰正室土方雄久女墓)f:id:shinsaku1234t501:20170705184527j:image彼らが悉く江戸留守居役を命じられたのは、戦場での大坂方への寝返りを防ぐことや彼らの嘆願で大坂方への処置が鈍らないことと同時に、本人たちが妙な動きをしないように見張る、いわば江戸における衆人環視の軟禁に等しい。こうして、大名本人が江戸に留め置かれるということは、在府及び国元の家臣にとっては主人を人質にとられたも同然であり、大坂方として挙兵することを許さない心理的効果を持つ。

東京都千代田区千代田 江戸城本丸石垣f:id:shinsaku1234t501:20170712200827j:image