侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その18

藤堂高虎徳川家との血縁はないが、秀吉の生前から家康に接近していたことで、譜代大名に準ずる扱いを受けたのは有名である。
秀忠の代になっても徳川家の忠誠は揺るがず、元和5年(1619)、徳川和子入内に関する「およつ御寮人事件」では徳川家の使者として宮中で辣腕を振るう。

浅野幸長・長晟】父親の長政が家康と昵懇である。慶長14年(1609)の婚約を経て、元和元年(1615)、幸長の娘である春姫は徳川義利(のちの義直)正室になる。こういった過程において幸長は、慶長16年(1611)の家康と秀頼の二条城会見では義利に供奉する形で同席した。

弟の長晟は徳川秀忠の小姓を務め、幸長没後に家督相続する。元和元年(1615)、家康の命により蒲生秀行未亡人の振姫を正室に娶る形で徳川家の姻戚となる。

伊達政宗慶長4年(1599)の婚約を経て、慶長11年(1606)、長女の五郎八姫が松平忠輝正室になったこともあり、松平姓を賜る。

宮城県仙台市青葉区川内 仙台市博物館 伊達政宗f:id:shinsaku1234t501:20171231225311j:image最上義光愛娘駒姫が秀次事件で処刑されたのを契機に秀吉よりも徳川家康への接近を図り、文禄3年(1594)から次男の家親を家康・秀忠に近侍させた。

【有馬則頼・豊氏】文禄年間(1592〜1596)、江戸への一時帰国を求めていた家康のために秀吉にとりなした縁で昵懇となる。

次男の豊氏は、慶長4年(1599)1月に家康から淀古城の守備を命じられるとともに、家康の御伽衆に列せられる。翌年の会津上杉討伐の出陣直前に家康の養女を娶り、関ヶ原合戦の軍功によって則頼は摂津三田2万石、豊氏は丹波福知山6万石に封ぜられる。豊氏の次男吉法師は、家康の外孫にあたる縁から江戸城元服、秀忠の諱を賜り忠郷(のち忠頼)と名乗る。また、則頼四男の豊長は旗本寄合席に列する。

山内一豊・忠義】関ヶ原合戦における一豊の軍功は言うまでもない。家督相続した一豊の甥、国松は秀忠の諱を賜って忠義と名乗り、慶長15年(1610)には松平姓を下賜される。また、家康の養女を正室として娶る。

蒲生秀行・忠郷】文禄4年(1595)の婚約を経て、慶長3年(1598)、秀行は秀吉の命により家康三女の振姫を正室に娶り、のち松平姓を賜る。秀行没後に家督相続した長男の亀千代は、家康の外孫として秀忠から松平姓と偏諱を賜り、忠郷と名乗る。しかし、家中で騒動が頻発するなど治政が不安定ということで、大坂の陣では出陣を許されず、江戸留守居役を命じられた。

福島県会津若松市中央2丁目 盛道山高巌寺 蒲生忠郷墓f:id:shinsaku1234t501:20170724172034j:image以上列記の通り、豊臣恩顧、もしくは東軍の有力大名として活躍した諸将は、なんらかの形で徳川家と縁を持つことで家名存続に努めた。

加藤清正に至っては、婿となった直後に家康の不興を買ったため、挽回の覚悟で東軍に加勢した雰囲気すらある。その後、徳川頼将の岳父とばかりに後見役まで務めているのである。それが加藤家としての自己保身の策なのか、もしくは豊臣家存続のためにこそ徳川家との関係を保ったものなのか、清正のみぞ知るところである。 

もちろん、豊臣秀頼への忠誠や豊臣家の存続を片時も忘れてはいなかった証拠に、秀吉から賜った蔵入地からの年貢を秀頼に送り続けていた事実がある。
ただ、この図式を見る限り、堂々と徳川家を敵に回すような豊臣恩顧のイメージもない。