侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その16

本戦において西軍の有力大名である毛利・島津・長宗我部らがほぼ動かず、宇喜多秀家や三成・大谷・小西らが奮戦したのに対し、東軍の主戦力も福島・浅野・黒田・長岡・藤堂など豊臣恩顧の武断派であった。西軍の三成ら文治派を制したのは、東軍に属した武断派の福島らであるという皮肉な構図である。これは徳川家を否定する豊臣家への忠義が、徳川家傘下で共存すべきとする豊臣家への忠義に取って代わられたことを意味する。

また、やむを得ない流れとは思うが、淀殿・秀頼も家康に抗しきれずに西軍の挙兵とは無関係を装うことで社稷を保った。そして、武断派による豊臣家を守るための深謀遠慮こそが、家康を天下人にしたと言っていい。

とかく関ヶ原合戦を巡る対立構図は、天下盗りの野望に燃える家康という巨悪に対して、止むに止まれぬ思いから忠義の士 三成が敢然と立ち向かって惜しくも敗れた、というお決まりのパターンで語られてきた。そして、これからも語られていくだろう。

三重県伊賀市上野丸之内 伊賀上野城 藤堂高虎f:id:shinsaku1234t501:20170907215758j:imageしかし、史実としての西軍は、家康の留守を狙って挙兵に及び、先手を打って大坂から美濃までの道筋を押さえて主導権を握っていたにも関わらず、一方的に攻め込まれて敗北に至るや、淀殿・秀頼から尻尾切りされたのである。

冷徹なまでに俯瞰した場合、いくら家康が秀吉の遺命に背いたとはいえ、秀吉が定めた惣無事令に背いて内戦を惹き起こしたのは他ならぬ西軍である、という見方を忘れてはいけない。

「歴史は勝者によって作られる」と言うが、この一連の流れは当初から西軍に自滅に近い要素があったと言わざるを得ない。だからこそ、それを認めようとしない西軍贔屓は未来永劫に浪漫としての関ヶ原合戦を語っていくしかないのだろう。

古今、戦争というのは正々堂々であることと、勝敗は別物である。前述の通り、三成が正々堂々にこだわるあまり、夜襲などを拒み続けたのに対し、東軍はその裏を巧みに突いてきた。正々堂々の武士道は美談かもしれないが、それゆえに負けてしまったら、それこそ「歴史は勝者によって作られる」のであり、肝心な正々堂々すら語られない。

「家康は汚い」と評するその逆は「三成が駆け引きを知らなかった」と言う答えになる。負けるのが嫌なら挙兵すべきではないし、挙兵するからには汚い手段を駆使してでも勝たなければならない。なぜなら、西軍が負けて豊臣家のためになることは一つもないのである。むしろ、豊臣家を劣勢に追い込むことになる。

また、三成や長束らは行政事務に優れていたものの、対する清正や福島ら武断派が著しく能力的に劣っていたわけではない。

清正や藤堂高虎らは築城の名手であると同時に領内の仕置にもかなり定評があった。

福島も検地など内政における功もあり、関ヶ原直後に黒田長政とともに西軍の総大将 毛利輝元大坂城退去に奔走した点を見ても相応の周旋能力を有していたと考えられる。

黒田孝高が秀吉の軍師であったことから嫡男の長政は影が薄いように解釈されがちだが、関ヶ原前後の調略・交渉能力や三成隊の嶋清興を討ち取った軍功は、まず八面六臂の大活躍と言える。

一方、戦下手と思われがちな三成だが、嶋清興らの奮戦もあって、黒田長政・長岡忠興らと互角に渡り合った。

どうしても、豊臣家臣団のテクノクラートである文治派と槍働き一辺倒である武断派の対立と表現されがちだが、単純に彼我の能力だけで色分けできるものではない。
そして、戦局を大きく左右したのは、秀吉晩年からの豊臣家の内部弱体化と迷走状態に、すでに勝敗の鍵があったと思わざるをえない。三成もまた豊臣家の内部修復を試みる努力をせず、家康はその内部崩壊をさらに根深い物にする努力を惜しみなくおこなった。