侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その13

もう少し史料などを参考にしながら、戦場が関ヶ原になった経緯を紹介する。

●「大垣は城塁壮固、兵食皆足る。秀家少しと雖も暗者に非ざるなり。而して義弘・行長・正家・吉隆、心を一にし力を戮せて持重して出でず。これを攻むれば必ず我が兵を損ぜん。独り三成、軽んじて衆を恃む。若しこれを外に誘出して、秀秋・秀元をしてその後を撓さしめば、則ち一戦にして鏖にすべきなり。我れ且く軍を動かし以てこれを試みん」(日本外史

西軍諸将は大垣籠城を唱えているが、三成をターゲットにして大垣城から誘い出せば、松尾山城から小早川秀秋の参戦、南宮山の毛利秀元の不参戦などで西軍の作戦を崩せば皆殺しにできる、と家康は目論んでいた。

一方の三成も同日の軍議で語っている。万が一、大垣城に籠城して野戦で雌雄を決することをしなかったら、せっかく西軍に同心してくれている諸国の士の落胆を誘う。小牧合戦において秀吉が戦うべきを戦わなかったがために、家康が名声を手に入れたことを考えれば、その過ちを再び繰り返してよいものか。

而して坐ながら孤城を守り、敢て出で戦はずんば、天下の我を望む者、皆沮喪せん。往年、小牧の役に太閤過慮し、当に戦ふべくして戦はず。終に内府の名を成す。今豈に過を弐びすべけんや」(日本外史

家康は、三成の虚栄心、もしくは戦術よりも建前や正義を重んじる性格を突く策に出たと言っていい。さらに、三成が小牧合戦を秀吉の一大失策と捉えていたことがよく分かる。これで、家康・三成両者が野戦を望んでいたと考えられる。

●西軍としては東軍よりも先回りして移動せざるを得ないので、赤坂岡山本陣を襲撃をしている場合ではない。逆を言えば東軍からすれば襲撃されなくて済む。

●本当に佐和山城を攻撃するつもりならば、東軍のほうが早くに移動を開始していなければおかしい。にもかかわらず、家康が午前2時まで全軍に移動命令を発しなかったのは、大垣城に残る者、野戦に動員された西軍諸将の布陣などを可能な限り情報収集するためと考えるのが自然だろう。

●西軍が一番避けなければいけないことは、東軍が近江を経て京大坂に接近することである。そして、近江の入口に佐和山城がある。三成の居城が攻略されたら西軍の士気に関わる。そうなれば、佐和山の手前で東軍の進路を塞ぐしかない。

大垣から西の佐和山へ繋がる道筋と西北の北国街道へ通じる道筋を重点的に固めてくるはずであることは、家康でなくても容易に推察できる。この2つの街道筋を同時に制することができる地は、すなわち関ヶ原から垂井にかけての一帯に絞られる。

●家康にとって、14日は吉川広家福原広俊の連名で毛利家不参戦の起請文が出されただけでなく、福原と粟屋就光から家康に人質を提出する約束が成立した。また、小早川秀秋には2ヶ国加増を約束した日でもある。決戦が延びれば心変わりが生じる恐れがある。西軍に裏工作の時間を与えないためにも、早期に戦端を開きたい焦りにも似た事情がある。

●若い頃から野戦の名手と謳われた家康としては、大垣・佐和山・水口と個々の攻城戦を演じて疲弊しながら西進するよりも、得意の野戦で勝利できれば、その後は圧倒的優位で降伏開城を前提とした外交戦に持ち込める。

●上記各項を総合すると、三成らが俄かに大垣城を捨てるかのように慌ただしく出陣した辻褄が合う。また、家康が遅れて移動したことにも説得力がある。

岐阜県大垣市郭町 大垣城天守f:id:shinsaku1234t501:20170918011445j:image佐和山城攻撃計画が全くの偽情報とは言えないが、少なくとも家康が西軍を大垣城から引きずり出すための方便だとしても、結果的には極めて有効だったと言えよう。

そして、東軍を近江の手前で迎撃する観点からすれば、西軍が迎撃するのは関ヶ原一帯しか残されていないのである。木曽川に始まった戦線の度重なる後退の結果であり、もはや戦術というほどでもない。