侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その12

西軍の軍議において岡山本陣の襲撃が取り沙汰されていることを知ってか知らずか、家康は三成の居城 佐和山城の攻撃を決定する。不思議なことに、東軍によるこの佐和山城攻撃計画がいち早く三成の耳に入り、午後7時には大垣城を出陣することになる。いわば、尾張への進軍を諦め、合渡川合戦で退却を決断し、家康本陣の夜襲を却下した三成が、やっと決戦の覚悟を決めた瞬間と言える。

家康は西軍の移動を見極めたかのように午前2時になってようやく全軍移動を命じた。福島ら諸将は大垣城からの攻撃に注意しながら移動を開始し、家康自身も1時間後の午前3時に岡山を発し、午前6時頃には桃配山に布陣した。

岐阜県大垣市赤坂町 徳川家康勝山本陣址 関ヶ原合戦慰霊碑f:id:shinsaku1234t501:20170914105732j:imageそれにしても、佐和山城攻撃計画が敵方の三成に漏れたのが早すぎる。普通に考えて、このような大事な作戦内容が敵に筒抜けになることすらおかしい。

杭瀬川合戦は時間が定かではないが、夕刻と伝わる。そして、三成が大垣城を出立するのが午後7時頃である。わずか数時間の中で大垣城に情報が伝わり、軍議が開かれて移動開始を決定したことになる。

ちょうど、西北の関ヶ原に聳える松尾山城には小早川秀秋が布陣している。おそらく大垣城の後詰という目的であろう。そこで、西軍は松尾山から北に連なる山裾に沿って東を向いた布陣を完成させる。

大垣は今でも「水都」と呼ばれる低地帯であり、北西部の一部を除いたほぼ全域が海抜3〜6メートルしかない。大垣城で籠城するなら方法もあるが、野戦を展開するのであれば、折からの雨で水を含んだ低地は適さない。西軍は佐和山の手前で東軍を食い止める意味も含め、まさに大垣の北西にあたる関ヶ原一帯に布陣を完成させる。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 天満神社 宇喜多秀家陣跡説明板f:id:shinsaku1234t501:20170914132113j:image三成は関ヶ原への移動途中、長束正家の陣に立ち寄っておそらく最終打ち合わせをしたのだろう。安国寺恵瓊とも打ち合わせに及んでいるが、果たして吉川広家福原広俊らの東軍内通などを本当に知らなかったのだろうか。俗にいう「空弁当」のエピソードが伝わる以上、この時点では毛利秀元吉川広家の不参戦は三成・恵瓊の知るところではなかったと考えたほうが無理がない。もし、何かしらの情報が入っていたら毛利秀元と面談する必要が生じていたに違いない。

松尾山麓では小早川秀秋の家老 平岡頼勝と面談し、秀秋の関白就任を直接約束したらしい。山麓で面談したということは後述するが、小早川の陣は山上ではなく、山麓にあったという説に繋がる。

さらに、盟友 大谷吉隆とも打ち合わせをおこなって、三成自身が笹尾山に布陣したのは午前1時頃であった。

この間にも、赤坂岡山の家康本陣には美濃曽根城主 西尾光教などから西軍の移動状況についての情報が続々と伝わっていたと思われる。三成ら西軍が午後7時から移動を始めたのに対し、家康が全軍移動命令を発したのが翌日の午前2時である。この7時間という時間差は東軍が堂々と進軍を開始するために必要だったと考えられる。

それは、西軍諸将の関ヶ原付近における布陣をある程度把握するための情報収集に徹した時間かもしれない。

また、大垣城に残った西軍勢力が移動する東軍を襲撃しないかを見極める時間だったとも考えられる。

そして、東軍が関ヶ原に布陣するということは、毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長宗我部盛親長束正家らの陣よりも奥に進むことになる。この時間の中で毛利の不参戦が担保されたからこそ移動を決断できた可能性もある。