侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その11

8月23日、大垣城から岐阜城への援軍が出撃した場合に備えて後詰していた黒田長政藤堂高虎田中吉政らが岐阜城下に到着すると、もはや落城の様相を呈していた。

岐阜県岐阜市金華山天守岐阜城復興天守f:id:shinsaku1234t501:20201201201511j:imageそこで、手柄を求める彼らは独断で大垣城目指して進軍を開始した。そして、大垣城東方の合渡川付近で西軍らしき軍勢を確認した諸将は直ちに軍議を開いたが、連日の豪雨で増水した川の渡河を巡って議論がなかなか決しなかった。その時、藤堂が黒田隊の後藤基次に諮問したところ、「軍議で無駄に時を費やすよりも、内府に面目を立てんとするなら討ち死を覚悟するのが本懐である」と返答をした。ここでも1人の人物の言葉が戦局を変えた。

こうして、合渡川合戦は後藤又兵衛が一番槍で濁流を渡河し、前野忠康(舞兵庫)率いる三成隊を駆逐した。墨俣に陣していた島津義弘は兵を整えて横合いから攻撃を加えれば勝てると力説したが、三成はこの意見を退けて大垣城へ退却する。

「義弘曰く、前軍敗ると雖も、吾と子と兵を整へ横撃せば則ち勝たんと。三成曰く、敵兵鋭進す。岐阜蓋し陥るならん。吾れ已に援くる能はず。何ぞ新勝の鋒に当るべけんやと。敗兵を収めて、倶に大垣に還る。」(日本外史

特に「吾れ已に援くる能はず」という表現に注目すれば、「三成が岐阜城を救援するのは無理だ」と匙を投げている、一矢を報いようともしていない、弱気な様子が見て取れる。その結果、戦勝の余勢を買った黒田隊を先頭に大垣城西北の赤坂まで進み、岡山(関ヶ原の勝利にちなんで、のち勝山と改称)を占拠した。翌日、岐阜城の東軍主力も赤坂周辺に布陣した。

同時期に大垣城に到着した宇喜多秀家が、赤坂の東軍陣地の夜襲を提案するが、やはり三成が却下する。西軍が全勢力を結集してから決戦に及ぶべしと言う理由だが、その頃には東軍も家康以下全軍が結集する可能性がある。「三成は年上、私は年下、年上と対立することはしないが、その代わり後悔はしないように」と、宇喜多の恨み節が垣間見える。

我が軍尽く至らば、則ち敵軍も亦た尽く至らん。勝其れ決すべけんや。然りと雖も、子は老輩の言を称す。吾は後生なり。敢て違はず。唯々子、これを悔ゆるなかれ」(日本外史

これらの勝報を得た家康は、愛妾お梶の方(関ヶ原の勝利にちなんで、のちお勝の方と改名)を同道して9月1日に江戸城を出陣、同14日昼頃に美濃赤坂にある岡山に到着した。とうとう家康と合流した東軍の勢いは西軍の動揺を誘い、一部では兵の逃亡も発生した。そこで、西軍の士気低下を怖れた嶋清興は三成の許可を得て一戦を試みたのである。

同日夕刻、左近の手勢が赤坂の手前で刈田を仕掛けたところ、東軍の中村一栄と有馬豊氏らが杭瀬川付近まで深追いしてきた。このタイミングで一色村に潜んでいた伏兵が襲いかかり、作戦通り宇喜多秀家隊の明石守重も襲撃に加わった。結局、家康の命を受けた井伊直政本多忠勝らが出撃して殿軍として退却を完了したものの、中村一栄の家老 野一色助義はじめ40名ほどが戦死した。こうして、嶋左近の鬼謀が轟いた杭瀬川合戦は西軍が勝利した。

この直後の軍議において左近と島津義弘小西行長らは、赤坂岡山の家康本陣に対する夜襲を提案したが、三成によって却下された。さきの合渡川合戦における退却といい、今回の夜襲却下にも納得がいかない島津義弘は、いよいよ翌日の本戦における不参戦の覚悟を固め、またしても三成の勇の無さが左近の策を退けたことになる。

俗に「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた左近であるが、これは単に左近が有能な人物であると言うだけでなく、その有能な人物を十二分に使いこなせていない三成への皮肉でもあり、献策を受け入れてもらえないにも関わらず、その三成に惜しみない忠義を尽くして死んでいった左近を惜しむ言葉にも聞こえる。

なお、巷で有名な三成が左近を破格の石高で招聘したというエピソードは、実は三成がまだ秀吉の小姓だった頃に知行5百石全てを投げ打って渡辺勘兵衛を雇った実話がベースと考えられる創作の可能性がある。普通に考えて、後から仕官してきた左近が三成の知行の半分で雇われたとなれば、古参の重臣が不愉快になるというものである。美談のように見えて、実はお家騒動の原因にもなりかねない。