侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その8

「打倒三成」を合言葉に熱量を帯びた東軍に引き換え、密かに家康に通じる増田長盛・いきがかりで西軍に属すことになった島津義弘・家中分裂の後味が悪い宇喜多秀家・一族の意見統一が図られない毛利輝元、調略の手が深く入り込んだ小早川秀秋(のちの小早川秀詮)など、西軍には東軍の比にならないほどのマイナス要因が内蔵されていた。

もちろん、山城伏見城合戦以降、伊勢松坂城・丹後田辺城・伊勢安濃津城・近江大津城など前哨戦において軍勢が各地に分散するあまり、連絡の不徹底や準備が整わない状況があったことは否めない。とても、三成だけに責任転嫁はできない。

西軍としては当初、福島正則の居城 清洲城まで飲み込み、三河との国境を戦場とする策であったが、なにせ東軍は下野近辺から全くの無傷で進軍してきたこともあり意気揚々である。犬山城は確保できたものの、清洲城代 大崎長行が家中の意見を統一して籠城の構えを見せたことで尾張に橋頭堡を築くことができなかった西軍は、木曽川を挟んだ美濃で東軍を待ち受けるしかなかった。「関ヶ原の勝利は大崎宇右衛門(玄蕃允)が清洲城を丈夫に持った手柄にある」とは、家康がのちのちまで語った言葉である。

愛知県清須市清洲古城 清洲古城公園 清洲古城趾碑f:id:shinsaku1234t501:20170718003932j:imageその昔、承久の乱において木曽川を挟んで迎撃した朝廷方が敗れた故事にもあるように、複数の隊が川の上流・中流下流のいたる所から同時渡河を敢行した場合、迎撃する側は戦線が伸びきって軍勢が細分化する対応を迫られる。「吾妻鏡」を愛読していた家康なら承久の乱の渡河戦に学んで、川を渡る側に利があることを知っていた可能性は十分にある。

8月14日、清洲城に集結した東軍諸将の中で福島正則・池田照政・山内一豊一柳直盛織田有楽斎・生駒一正・生駒宗直(のちの生駒利豊)小坂雄長兼松正吉森可政森可成の弟)などは、いずれも尾張出身者である。

愛知県江南市小折町八反畑 宝頂山墓地 手前の石廟が生駒利豊墓、奥の石廟が正室(遠山友政女)墓f:id:shinsaku1234t501:20170921092841j:image中でも生駒宗直の場合、美濃岐阜城織田秀信は従兄弟である信忠の子にあたる。当然、姻戚の縁を頼って岐阜城から西軍への同心要請が再三に亘ってあったが、それよりも先に清洲城福島正則会津上杉征伐に出陣する際に小折城に立ち寄り、きたるべき時の同心を約束した事実もあり、東軍同心の姿勢を貫いた。

また、森可政は木曽川に面した尾張葉栗郡の蓮台城出身であり、一柳直盛(尾張黒田城主)と兼松正吉(尾張島村城主)も木曽川にほど近い地を領していた。おのずと地の利がある。

愛知県一宮市木曽川町黒田字古城 黒田城址f:id:shinsaku1234t501:20170929203738j:imageその証拠に、いち早く8月16日に清洲城を出陣した東軍の別働隊(尾張赤目城の横井時泰・美濃松ノ木城の徳永寿昌・美濃今尾城の市橋長勝ら)は、大垣以西に分布する西軍と伊勢方面の遮断のために福束城・高須城などを攻略して、南濃方面を崩した。

もちろん、西軍にも美濃の小領主が多数いたが、東軍の尾張・美濃衆が別働隊として局地戦を巧みに展開したのに対し、西軍の美濃衆は後詰、もしくは与力のような形に置かれ、およそ活躍が見られなかったと言える。

後述するが、西軍が尾張はともかく木曽川から大垣、さらに関ヶ原と戦線を徐々に後退していった背景の一つとして、両軍の地元衆の動きにかなりの差があると考えられる。