侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その5

また、家康の密命を受けた柳生宗矩が、同じ大和出身の嶋清興(石田三成家臣)を調略すべく訪問した時の会話も「常山紀談」に所収されている。嶋左近は三成について語った。

「然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。既に時を失ひぬ。能々世の有様を見るに、石田の家を悪む人々、大かた徳川殿に心を寄せたり。當家の存亡計るべからず。一日の過ぐるも殘り多し。只理を非に曲げて、唯今まで疎遠の諸大將達へも遜りて、遺恨無く計ひて交り親しみ、暫く時を待つべきも一つの計策にてこそ

先に紹介した大谷吉継の三成評にも共通するが、三成は勇(決断力)が足りないばかりに大事な局面で空しき失策が多い。また、石田家を憎むほとんどの人々が、徳川家に心を寄せている。この際は、今まで疎遠になっている武断派ほか諸将にへりくだってでも誤解や遺恨を解消し、親しく交際することで時を待つのも一策、と献策したが、三成が受け入れるはずがない。

「常山紀談」は、関ヶ原合戦から170年を経た明和7年(1770)に完成した逸話集なので、当時の事実がどれほど反映されているかは、もちろん懐疑的である。
また、大谷が友人関係ゆえに三成に忌憚の無い意見をするのは大いにあり得ることだが、嶋左近が敵方の柳生宗矩に主君三成への批判を詳細に話すというのはいかがなものか。

しかしながら、話のシチュエーションはさておき、盟友である大谷、股肱の臣である左近、二人が三成に抱く不安がほぼ共通しているというのは注目に値する。彼らが奇しくも家康の声望を十二分に理解しながら、危うき三成に殉じたからこそ、その壮絶な戦死に後世の我々は魅了されるのであろう。さしもの足利尊氏という敵を理解しながらも立ち向かった楠木正成に似た心境であろうか。

結果、豊臣家第一主義者である三成は秀頼に殉じたつもりだろうが、現実的なビジョンを持っていたこの二人はその三成に殉じたのである。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 笹尾山 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170929204012j:imageまた、増田長盛にしても西軍に属して大坂城に留まりながら、家康に上方の情勢を密書で送るなど、密かに誼を通じていた。

ところで、関ヶ原で西軍が勝利していたら、三成はどのような世を創るつもりだったのか。その政治構想を伝える書は見つかっていない。「大一大万大吉」の旗印に象徴される万民の平和を請い願う人物なのだろうか。近江佐和山の領民には慕われていたと思うが、地元民に支援されるのは、こんにちの政治家とて同じである。その程度で名君と断じることはできない。

まず言えることは、関ヶ原前後の諸将との関係性を見ても、彼は徹頭徹尾たる豊臣家第一主義者でしかない。仮に徳川家が滅びても、豊臣家に対する次の仮想敵を想定して政争を始める雰囲気を受ける。

そもそも、彼の理想が多くの人々に受容されるものならば、紹介したような「常山紀談」のエピソードはありえないし、もう少し賛同者がいてもいいはずである。

嶋左近の献策通り、馬が合わない武断派と相互理解を深めることで豊臣恩顧の分裂を防ぎ、家康との戦いを回避して秀頼の成長を見守るという臣下の道もあったはずである。その深謀遠慮をせず決戦に及んだということは、彼にはそれ以上のビジョンが無かった、もしくは見えていなかったと言われても仕方がない。

某所 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20200424193115j:image