侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その4

「総ての堀を埋めて裸城にすれば、大坂城は落城する」と、生前の秀吉が家康ら諸大名に語った逸話がある。確かに、後年その通りになるのだが、まるで自分の死後、誰も大坂城を落城に追い込むとは思っていなかったような言い回しである。もはや天下が覆るはずはないと楽観していたのか、総堀を埋めるなどできるはずはないとタカをくくっていたのか、はたまた家康ら諸大名に全幅の信頼を寄せていたのか。

京都府京都市東山区今熊野北日吉町 豊国廟 豊臣秀吉f:id:shinsaku1234t501:20170726205808j:image一方で、自分が信長亡き後の織田家をどのように扱ってきたのかを考えるべきであった。力ある者が主家をも凌ぐのは戦国時代の習いである。次世代豊臣家を脅かす下剋上の危険性を見据えた警戒感は抱くべきであったし、常に体制の強化を図るべきであった。

ところが、晩年の秀吉は自らの手足をもぐかのように古参家臣を粛清、もしくは遠ざけた。さらに、秀長・秀次・秀勝など主要な一門衆も先に逝った。こういった経緯から豊臣家が一門衆や譜代家臣のみで運営することすらできなくなったのは、明確に秀吉自身に起因する。

こうして、晩年の秀吉が家臣団分裂の芽を放置した結果、案の定、家康の家政介入を許す形となり、文治派を無視するかのように秀吉の遺命に反する。もう一方で、不満を募らせる武断派には理解を示しながら婚姻を持ちかけるなどして縁戚関係を構築していく。
諸将とて家康を「正義」とまでは思わないにしても、その強大な権力の傘の下で秀頼の豊臣家が存続していくのが現実策だと思うようになり、反面、三成ら文治派は排除すべき「君側の奸」として憎悪の対象になっていく。

もちろん、三成の豊臣家への忠義は疑うべくもないが、あまりにも限定的、且つ排他的であり過ぎた。周囲にいた大谷吉継増田長盛でさえ、どこか危ういと思うほどに狭い忠義と言わざるを得ない。

滋賀県彦根市古沢町 佐和山城f:id:shinsaku1234t501:20170726230734j:image「常山紀談」に、大谷が三成に直接語ったとされる言葉が紹介されている。

「世の人石田殿をば無礼なりとて、末々に至てもこころよからずいいあえり。江戸の内府は只今日本一の貴人なれども、卑賤の者に至るまで礼法あつく仁愛深し。人のなつき従う事大方ならず、是一つ。次に大事は智勇の二ツならではとげ得がたし。石田殿は智有りて勇足らざるかと存候。今度毛利、浮田も皆かりに同意したる人々なり。必ずしも頼みとすべきにあらず」  

盟友の大谷が「下々の民に至るまで三成を快く思っていないと言い合っている」と、ずいぶんストレートにその人望の無さをぶつける一方で、家康の声望甚だしきを語っている。

その証拠は関ヶ原合戦における東軍参加武将の顔ぶれにも見てとれる。三成を嫌う清正や福島をはじめ武断派諸将が家康に味方するのはやむを得ないとしても、秀吉の御伽衆として大坂城に常駐していた織田有楽斎、家康暗殺計画の嫌疑で流罪となっていた浅野長政大野治長、いずれも三中老の嫡男で堀尾忠氏中村一忠生駒一正、すでに徳川家臣となっていた可能性がある平野長泰などである。これらの人物にも豊臣恩顧としての忠義は当然あったとは思われるが、少なくとも三成に共鳴しなかったからこその東軍参戦なのである。