侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その3

長年、羽柴家の外交面を主に務めた蜂須賀家は正勝没後、嫡男家政の代になると阿波徳島の一大名となり、軍師の黒田孝高も豊後中津の一大名に収まり、さらに名補佐役として名高い大納言秀長が病没、前野長康木村重茲明石則実渡瀬繁詮らに至っては秀次事件で処罰されてしまった。自然、家臣団の世代交代が図られた。

京都府京都市中京区木屋町三条下ル石屋町 慈舟山瑞泉寺 豊臣秀次f:id:shinsaku1234t501:20170629203332j:image秀吉の縁者である加藤清正福島正則武断派でさえ、単に地方の一大名に収まった。

一方、豊臣家は浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家前田玄以ら文治派寄りと位置づけられる五奉行生駒親正堀尾吉晴中村一氏ら三中老に委ねられた。しかし、この人事は秀頼を盛り立てるべき次世代豊臣家の一枚岩とは逆行したものであり、そこに透けて見える分裂構造を的確に捉えた家康の付け入る隙と化した。

愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷 正悦山妙行寺 加藤清正f:id:shinsaku1234t501:20170801002000j:image本来、徳川家にも本多忠勝榊原康政のような武断派本多正信に代表される官僚派の対立構図はあったが、家康は巧みにそのバランスを利用したと言える。

しかし、秀吉は武断派を重用せず、文治派にのみ比重を置いた。なるほど国内が統一されたのであれば、吏僚中心の人事を考えるのは当然の論理である。問題は、秀吉が文禄・慶長初期の段階で二度と戦乱が発生しない泰平の世と解釈したことにある。

さらなる重大な失敗は、豊臣家譜代の五奉行・三中老の上に、「五大老」という有力外様大名を祀り上げたことである。これによって五大老から見れば、石高の低い五奉行・三中老は単なる小役人程度の扱いとなり、秀吉の遺言に反した家康に抗議をしてもまともに相手にもされない。また、関ヶ原合戦において三成の指揮下で動くことを快く思わなかった毛利家や島津家の対応の一部にはこういった家格の問題もあったと思われる。

もっとも、五奉行・三中老・五大老という職制の存在については、未だ判然としないことを申し添える。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 島津義弘陣所址碑f:id:shinsaku1234t501:20170724170230j:image結果論になるが、江戸幕府における徳川家は「公儀」と称された通り、家そのものが政府(公)という機能を有するまでに至った。また、将軍の独裁体制を内から補佐するのが譜代大名であったことが安定基盤だったとも言える。すなわち、外様大名は「敬して遠ざける」が鉄則であった。幕末、この鉄則が破られたことにより、朝廷を擁した雄藩の勢力増大に反比例した幕府の権威失墜は歴史が証明している。

一方、豊臣家は天下を取ったとはいえ、秀吉一代のカリスマという私人の家柄でしかなかった。彼の没後、秀頼をして社稷を保とうとする三成ら直臣に加え、次は徳川か、前田か、という憶測が流れる中で外様大名が関与したことは、かえって豊臣家の家中や政事に混乱をきたす結果となった。