江南市前飛保寺町 日輪山曼荼羅寺 蜂須賀家政公顕彰碑幼少期の家政が市内にある曼荼羅寺の塔頭 梅養軒(現 本誓院)で昌運上人を師と仰いで学問修業をおこなった縁、また寛永9年(1632)に御所紫宸殿を模して曼陀羅寺正堂(本堂)を再建したこともあり、写真のような顕彰碑が建立されている。ちなみに、本誓院には家政の使用した文机や位牌が残されている。
江南市前飛保寺町 本誓院 本誓院由緒沿革碑蜂須賀正勝・家政父子が羽柴秀吉の家臣として転戦していた時期の宮後城の詳細は分からないが、天正12年(1584)の小牧合戦において修築された。但し、羽柴軍の拠点なのか、織田・徳川軍なのか、諸説あって判然としない。和睦成立後に破却されたという。
また、宮後城の外郭にあたる地に宮後八幡社が鎮座する。本丸としての宮後城に対して、出城の役割を期したものであり、写真の通り野面積みの石垣で囲われている。
江南市宮後町八幡 宮後八幡社石垣但し、この八幡社の創建時期については疑義がある。
天正15年(1587)に創建され、寛永元年(1624)、蜂須賀家政によって再建されたとする説が散見されるが、「武功夜話」には正勝が居城していた永禄年間(1558〜1570)には、すでに宮後城主 安井氏が勧請して三輪若狭(蜂須賀正勝正室大匠院まつの兄)が関与していた八幡社があったとしている。
余談だが、大匠院の父親を三輪吉高とするならば、確かに宮後八幡社の社家と伝わり、若狭に相当する人物は吉英と推定できる。しかし、その一方で大匠院の父親を正勝家臣の益田持正とする説もある。戸部新十郎の小説「蜂須賀小六」(光文社時代小説文庫)は、真清田(益田)持正説を採用している。
江南市宮後町八幡 宮後八幡社また、天正15年創建説を採用した場合、小牧合戦終結後に宮後城が取り壊されているにも関わらず、その3年後に八幡社が出城機能を有して築かれたという辻褄の合わない話になる。(完)