侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

甲陽鎮撫隊から新選組へ その3

4月12日、江戸に潜行していた内藤・島田らは下総国府台(千葉県市川市)において旧幕府陸軍大鳥圭介と合流し、宇都宮などに転戦しながら4月29日に会津へ辿り着く。
一方、大久保大和という名前で押し通していた近藤だったが、流山から越谷の東山道先鋒総督府軍陣営に出頭した際、すでに渡辺九郎左衛門という近江彦根藩士に正体を見破られていた。そもそも近江彦根藩京都守護職の与力を命じられていたこともあり、京洛の治安維持に尽力していた点では仲間とも言うべき関係にあった。渡辺は御所の施薬院でおこなわれた会議で近藤勇と同席したこともあって、顔を覚えていたようである。

その後、その渡辺らの護衛で板橋の東山道先鋒総督府本営に送られた大久保は、尋問に立ち会った東山道先鋒総督府軍の中に元新選組隊士であり、御陵衛士として敵対した過去を持つ加納鷲雄(のちの加納通広)・竹川直枝らがいたため、その素性を明かされてしまう。

東京都北区滝野川 寿徳寺境外墓地 近藤勇f:id:shinsaku1234t501:20201011040512j:image加納鷲雄は取り調べの部屋に入るがいなや、「大久保大和、あらため近藤勇」と呼びかけた。大久保の顔色は一瞬にして変わったという。最初は新選組に属しながら、伊東甲子太郎らと脱退して御陵衛士に参加するや新選組と緊張関係になり、伊東や藤堂平助服部武雄らが油小路事件で殺害されると、薩摩藩に保護された。その後、伏見街道において馬上の近藤を狙撃して負傷させたこともある加納からすれば、大久保大和の正体を近藤勇と看破したこの瞬間こそ、御陵衛士の仲間を惨殺されたことへの最大の復讐だったのかもしれない。

大久保大和が近藤勇と同一人物と判明したからにはただで済むはずがない。坂本龍馬中岡慎太郎らが暗殺されたことで知られる慶応3年11月15日の近江屋事件新選組の仕業と信じ込んでいる谷干城土佐藩士・中岡の陸援隊に所属していた経歴を持つ東山道先鋒総督府大軍監の鯉沼伊織(のちの香川敬三)など新選組に恨みを抱く人々の思惑の中で斬首が言い渡される。

4月25日正午すぎ、近藤勇甲陽鎮撫隊長ではなく、下総鎮撫隊長でも、流山屯集隊長でもなく、京洛で尊王攘夷派の志士を弾圧し続けた新選組局長として処刑された。首級は板橋、のち塩漬けにされて京都に送られ三条河原、大坂千日前でも梟首された。

東京都北区滝野川 寿徳寺境外墓地 近藤勇f:id:shinsaku1234t501:20170519174919j:imageかくして、下総鎮撫隊(流山屯集隊)の名は忽然と消え、流山を脱出した隊士と土方歳三らが会津で合流した時点で、元の名乗りである新選組に戻った。

会津新選組(隊長 斎藤一)、箱館新選組(隊長 土方歳三相馬主計)など、それぞれの地で隊士の顔ぶれを少しずつ変えながらも、この隊名と「誠」の旗にこだわり続けた感がある。(完)f:id:shinsaku1234t501:20240225035144p:image