侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

甲陽鎮撫隊から新選組へ その2

半月ほどの五兵衛新田駐屯中に人数を230名以上に増やしたことで、隊名を下総鎮撫隊と改称したというが、新政府軍が千住宿(東京都足立区)に迫りつつあるとの報に接し、4月1日夜、五兵衛新田を発し、途中松戸平潟宿(千葉県松戸市)の千檀家で休憩をとり、翌朝には流山(千葉県流山市)に到着する。

松戸市根本 千檀家(現 松戸シティホテル)f:id:shinsaku1234t501:20170614205426j:imageここでも、大久保・内藤ら数名の幹部は醸造業の長岡屋に宿営したとされるが、これも最近の研究では異説がある。写真の土蔵は現在地に移築されたものであり、当時の正確な位置を示していない。また、本陣とした「長岡屋」という屋号は昭和になってからのもので、当時は「鴻池」という屋号だったらしい。さらには下総鎮撫隊から流山屯集隊に改称したような話もある。なお、ここでも隊士は近くの光明院などに分宿した。

流山市流山 長岡屋土蔵f:id:shinsaku1234t501:20170519173351j:image当時、宇都宮に向けて行軍中の新政府東山道先鋒総督府軍大軍監の鯉沼伊織(のちの香川敬三)は、この動きを察知すると、粕壁宿(埼玉県春日部市)から有馬藤太率いる一隊を急遽、流山に急行させる。

実のところ、流山に駐屯しているこの一団の正体がよもや新選組だとは夢にも思っていないだろう。いや、下総鎮撫隊、もしくは流山屯集隊という隊名すら知らなかった可能性がある。唯一分かっているのは新政府軍ではないことだけである。
4月3日、流山一帯を包囲した東山道先鋒総督府軍の有馬から出頭命令を受けた大久保は切腹を覚悟したが、内藤に止められ、夜になって出頭した。
4月4日、内藤と島田魁らは江戸に戻り、勝海舟大久保一翁など旧幕閣要人に大久保大和の救出を嘆願するが、聞き入れられなかった。

内藤が大久保の切腹を止め出頭を許したのは、単に命を惜しんだというよりも、近藤勇と露見しないうちに旧幕閣要人を通して救出できるという自信や楽観がどこかにあったのかもしれないが、その期待は見事に裏切られた格好になる。

4月6日、流山に残された隊士は、主要な街道を避けて東に向かった。布佐(千葉県我孫子市)から利根川を下って銚子(千葉県銚子市)に至った。本来であれば、銚子から航路で北上して平潟(茨城県北茨城市)に行きたかったが、すでに銚子近辺は新政府に恭順した上野高崎藩の飛び地として警備が厳重だったため断念する。やむなく潮来茨城県潮来市)から浜通りに沿って平潟まで陸路で北上するというかなりの大回りで会津を目指した。一説には、この軍を斎藤一が率いていたとする説がある。

流山市流山 長岡屋土蔵にある石碑f:id:shinsaku1234t501:20170519173326j:image