侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

石田堤(埼玉県行田市〜鴻巣市)

最初は忍城に力攻めを仕掛けたが撃退され、のち方針を変更して豊臣秀吉を真似た水攻めをしたものの、開城に至らなかった。すなわち、石田三成は戦下手というのが通説だが、資料によると、悉く逆のようである。

埼玉県行田市佐間 さきたま古墳公園に現存する石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170306200829j:image秀吉からの水攻め命令は当初より伝わっており、そこにあとから参陣したのが石田三成である。水攻めという作戦が前提であることから兵の士気は低く、「どうせほどなく開城するだろう」と攻める気配すらない。そこに秀吉からの書が届く。

「忍之城儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命乞儀被成御助候様与、達而色々歎申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共、定一万計も可有之候歟、然者隣郷可成荒所候間相助、城内、小田原ニ相籠者共、足弱以下者端城ヘ片付、何茂請取候」(天正十八年六月十二日 豊臣秀吉朱印状)

埼玉県行田市堤根 石田堤碑f:id:shinsaku1234t501:20170622101005j:plain三成は陣中に蔓延する「どうせ水攻めだから・・・」という楽観的な雰囲気を下記のように浅野長吉・木村常陸介宛て文書で嘆き、力攻めを主張している。

「然処諸勢水攻之用意候て、押寄儀も無之、御理ニまかせ有之事候、城内御手筋へ御理、半人数を出候ハゝ、遅々たるへく候哉、但人数を出候共、御詫言之筋目ハ、其かまい有之間敷候ハゝ、先可押詰候哉、御報待入候、猶口上申含候」(天正十八年六月十三日 浅野長吉宛書状)

埼玉県行田市堤根 石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170622101121j:plainさらなる秀吉からの文書では、油断なく水攻めの普請をおこなうよう命じ、堤普請が大体できあがった頃には使者を派遣すると伝える。

水責普請之事、無由断、申付候者、尤候、浅野弾正真田両人、重而被遣候間、相談、弥堅可申付候、普請大形出来候者、被遣御使者、手前ニ、可被為見候条、成其意、各可入精旨、可申聞候也」(天正十八年六月二十日 豊臣秀吉朱印状)

  のち、秀吉の命により浅野長吉が参陣し、忍城下の皿尾口で30余りの首級を取るほどの戦功を秀吉に報告するが、下記の文書の通り、その程度の戦功は当たり前のような扱いで、とにかく水攻めを履行するよう強調される。

「一昨日朔日さろう口乗破、首三十余討捕之由、絵図被成御覧候、破候て可然所候條、尤被思召候、菟角水責ニ被仰付事候間、其段可申付候也、」(天正十八年七月三日 豊臣秀吉朱印状)

埼玉県行田市白川戸 天洲山種智院西明寺f:id:shinsaku1234t501:20170306201137j:imageこうして、白川戸村の西明寺から丸墓山古墳を経由して久下村に至る総延長28kmにわたる石田堤ができたものの、映画のように津波が起きることはなく、ジワジワと水が城に迫る感じだったとのこと。
なおかつ、陸に上がりたい多数の蛇が城まで泳いできたため、城兵は困ったあげく、蛇をいかにして食すべきか思案したという話が伝わっている。(完)

埼玉県鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園に現存する石田堤上部f:id:shinsaku1234t501:20170306201438j:image埼玉県鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園に現存する石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170306201526j:image埼玉県鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園付近にある堀切橋f:id:shinsaku1234t501:20170306201621j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240225033703p:image