侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

意外と体育会系?・・・徳川家康 後編

さらに、家康は弓を取れば竹林派の石堂藤右衛門に師事して免許を取得した。そのおかげなのか、三方ヶ原合戦の敗走中、追いすがる武田兵数人を騎射で仕留めて逃げ切ったという。必死の形相で逃げただけではなく、実際に敵を討ち取りながらの敗走ゆえに、恐怖のあまり脱糞にも気づかなかったと考えるほうが無理はない。

余談だが、実は脱糞について触れたのは「改正三河風土記」(天保8年刊)のみであり、なおかつ三方ヶ原合戦ではなく、その前哨戦となった一言坂合戦におけるエピソードとなっている。この合戦は武田軍と遭遇した徳川軍が撤退する際に生じたものであり、実際に戦ったのは内藤信成大久保忠世、殿軍を務めた本多忠勝らである。家康はそれよりも手前の場所から武田軍に捕捉されることなく浜松に帰城したとされる。もしくは当日は出陣していなかったという説もあることから事実関係は判然としない。

砲術については、関ヶ原合戦前夜、長岡忠興正室ガラシャが自害した際に脱出したことで、忠興から恨まれたその家臣、稲富祐直を助命した縁で、師事して稲富流免許を得る。祐直はさらに、尾張清洲松平忠吉、その跡を受けて名古屋城主となった徳川義利(のちの徳川義直)にも仕えた。家康のみならず、次々にその子に仕えたという事実を見れば、いかに重用されたかが分かる。

実際、家康は毎日鉄砲の訓練を欠かさず、100メートル先の鶴を仕留めた事実もある。

もともと家康と鉄砲の出会いは非常にほろ苦いものであった。永禄年間の三河統一の過程において、小笠原安重(幡豆寺部城主)・小笠原安元(幡豆欠城主)らを走り付けの浜まで追撃した結果、敵軍の鉄砲(空砲)の轟音に驚いて敗走した「走り付けの戦い」と称する不名誉な合戦がある。

こうして、鉄砲の効なり害なりを知る家康は、慶長12年(1607)に国産鉄砲の製造を近江坂本郡国友村に限定し、鉄砲代官を設置して幕府の許可による案件のみと厳しく取り締まった。これは日本史上において鉄砲が厳しく取り締まられた初めとされ、ゆえに銃社会にならなかった所以と評価されている。

しかし、元和元年(1615)1月11日、家康は国友村に大量の鉄砲を発注する。ちょうど、その時期は大坂城の堀埋め立てを巡る大坂方とのせめぎ合いがおこなわれていた時期でしかない。すでにこの頃に再びの合戦を視野に入れていた証拠である。

また、大坂冬の陣において片桐且元が下知した最新式の鋼鉄製カルバリン砲の砲弾が大坂城に命中することで、大坂方が和睦に至るくだりがあるが、これは家康家臣である田付景澄が砲撃したものである。田付が輸入銃器担当の砲術家であるのに対し、国産銃器の製造は井上正継が担当した。

長巻(薙刀)は三河時代、有馬貞時に3年間師事し、新当流(有馬流)の奥義皆伝となるが、ほどなく貞時が亡くなったことで、家康がこの流派の後継者として宗家を襲名し、のち貞時の孫にあたる有馬秋重が家康に師事する形で皆伝を授けたという事実もある。
また、「徳川実紀」などの記載をつぶさに見ても、若年から死の直前まで鷹狩に勤しんでいた頻度を考えると、かなり活動的な印象を受ける。

以上の事実から考えると、動きの鈍い太った殿様のイメージとはほど遠い。
伊賀越えは確かに少ない家臣と軍事的備えがない状況下であったため、彼の一生における窮地には違いないが、必要以上に怯えていたとするのは脚本家の認識の問題でしかない。

愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170418233351j:image同様に、三方ヶ原合戦で脱糞しながら敗走したこと、大坂夏の陣真田幸村に本陣を抜かれて命からがら逃げたことなど、みっともない姿が描かれがちだが、実際は同時代の大名の中では、まずもって第一級の武人と言っていい。(完)f:id:shinsaku1234t501:20240223020959p:image