侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

十九首塚(静岡県掛川市)

静岡県掛川市十九首

十九首塚由来説明板f:id:shinsaku1234t501:20170515001959j:image天慶3年(940)2月14日、新皇を称して関東一円に君臨した平将門は、下総猿島の戦いにおいて戦死する。将門を討ち果たした俵藤太こと藤原秀郷は、将門とその家臣の首級を携え上洛の途につく。

そして8月15日、秀郷はこの地において朱雀天皇の勅使一行と合流した。勅使の目的は将門の首実検であり、早速、近くの下俣川で次々と首級を洗い、橋の欄干に掛けて検視をおこなった。勅使は目的を終えた首級を破棄するように伝えたが、秀郷は「仮にも将門はひとかどの武将である」として、十九の首級を川畔に丁重に葬り、将門の念持仏を祀る寺(庵)を建立した。

このエピソードから、首級を洗った下俣川は「血洗川」と伝えられ、埋葬された地は「十九首」と呼ばれるようになる。また、将門の念持仏である薬師如来を祀った寺はのちに「東光寺」と名を変えて現在地に残り、橋の欄干に首級を掛けたことから「懸川(掛川)」という地名になったとする説もある。

下俣川 f:id:shinsaku1234t501:20170401171207j:image時を経て、この地で悲劇が起きる。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦今川義元が戦死し、今川家から独立した松平元康の三河統一が図られるさなかの永禄5年(1562)、井伊谷城主 井伊肥後守直親が松平家への接近を目論んだという噂が流れる。井伊直親駿府今川氏真に弁明するために井伊谷を出発して駿河に向かうが、一行がまさにこの地に差しかかった時、氏真の命を受けていた掛川城朝比奈泰朝の襲撃を受けて主従ともども惨殺された。

現在の十九首塚(中央の五輪塔平将門f:id:shinsaku1234t501:20170401171134j:image相馬小太郎将門

御厨三郎将頼

大葦原四郎将平

大葦原五郎将為

大葦原六郎将武

御厨別当多治経明

御厨別当文屋好兼

藤原玄茂

藤原玄明

坂上遂高

武藤五郎貞世

鷲沼庄司光則

鷲沼太郎光武

隅田忠次直文

隅田九郎将貞

長狭七郎保時

大須賀平内時茂

東三郎氏敦

堀江入道周鍳

しかし、将門の首塚といえば、埼玉県幸手市の浄誓寺、東京都千代田区大手町や岐阜県大垣市の御首神社にも由来するがゆえに、この地の首塚は将門ではなく、井伊直親とその家臣を祀るものという言い伝えもあるらしい。また、当初、十九基あったはずの首塚は時代を経ていく中で次第に数が減っていき、中央の将門の首塚とされるものを残すだけとなっていたが、近年、場所を移動して写真の通り整備された。

なるほど疑問は多々ある。まず、将門らの首をこの地で洗ったというのはいかがなものか。本来、戦場における首実検の段階で洗い清めるべきであり、日が経ってから洗ったとしてもこびりついた血痕が綺麗になるものだろうか。ましてや腐敗も始まっているかもしれない。

また、将門は若き頃、京にいた時期があるものの、首実検にあたって顔を知っている存在が勅使一行の中にいるのか。さらに、この地に伝わっている将門の名が「小太郎」というのはおかしい。正しくは「小次郎」のはずである。

一方で、井伊直親が連れていた家臣が十数人程度だった可能性は十分にある。

また、殺された直親の遺体を井伊谷まで持ち帰る南渓瑞聞が、ひっそりと供養塔を建立した可能性も考えられないわけではない。それを平将門首塚と称することができれば、祟りを怖れるあまり誰も撤去しようとはしないのではないか。

なにせ、井伊家の出身とはいえ、南渓は今川義元の葬儀の導師を務めた名僧であるがゆえ、今川家としてもひっそりと供養塔を建てるぐらいは目をつぶったのではないかなど、この首塚については興趣が尽きない。

もっとも、南渓が持ち帰った直親の遺体は、都田川畔で荼毘に付し、現在の浜松市北区引佐町細江町にも墓がある。

いずれにせよ、十九首は非業の死を遂げた人物の鎮魂の場であることに違いはないらしい。f:id:shinsaku1234t501:20240223020649p:image