一盛長者伝説地碑 石碑側面に刻まれている説明や伝説を調べる限り、永保3年(1083)、陸奥守に叙任されて後三年の役が勃発した任地に向かう源義家が10万余の大軍を率いて当地に立ち寄り、一盛長者なる主人より歓待を受けた。
後三年の役終結後、寛治2年(1088)、陸奥守を解任され帰洛途上の義家が再び立ち寄ったところ、前にも増した饗応を受けた。
これによって、義家は長者の財力を危険視して急襲。一旦は抜け穴に逃げ延びた一盛長者だったが、追い詰められると、家宝である黄金の鶏を抱いて那珂川に身を投げたと伝わる。
一盛長者伝説地碑側面の説明文ただ、こんにちのイメージにある資産家という単純なものではなく、おそらく平安時代における長者というのは財力・土地一円の支配力・軍事力を兼ね備えた土豪と考えられる。
また、義家が武士の面目にかけて壮絶なまでに戦った後三年の役は「朝廷の意向に基づかない私戦」と認定され、何らの褒賞もなかった。武士が命をかけて戦う一方で、諸国の長者が利権を得ていくさまが、彼の神経を逆撫でしたとも思える。
土塁のちに義家のもとに諸国の百姓から荘園が寄進されるに及び、寛治5年(1091)、朝廷が義家への荘園寄進を禁じる宣旨を出すことになる。本所・領家として君臨する摂関家や上級公家、預所・庄司として現地の荘園管理を担う下級公家、そのどれにもあてはまらない武士でしかない義家が諸国の名声を勝ち得ると同時に、荘園を所有する貴族化は許されざることだったに違いない。
奇しくも、源氏には長者伝説が付きまとう。
1、平治の乱で美濃大垣まで落ち延びた源義朝・朝長父子を匿った青墓長者
2、義朝の子である範頼は、遠江池田宿の遊女の子とされているが、実は池田一帯の長者の娘であったらしい
3、義朝の子で、奥州平泉を目指す若き義経が三河矢作の兼高長者の世話になり、その娘である浄瑠璃姫と恋仲になるが、義経出立ののち、浄瑠璃姫は川に身を投げた
土塁なお、義家が宿泊した折に、馬の飼料である煮豆の残り汁を発酵させたものが振る舞われたことから、納豆の発祥とも伝わる。
土塁