赤坂見附御門石垣寛永13年(1636)、62の大名家に石垣、58の大名家に堀を担当させる形で飯田橋・四谷・赤坂・溜池の江戸城外堀普請がおこなわれた。
赤坂見附御門石垣寛永9年(1632)、栗山利章の訴えに端を発した筑前黒田騒動で改易を免れた黒田忠之としては、この天下普請は幕府に忠誠を示す絶好の機会となったのかもしれない。
赤坂見附御門石垣こうして黒田家が築いた桝形石垣の上に、加藤正直・小川安則ら普請奉行が赤坂御門を完成させたのは寛永16年(1639)。
赤坂見附周辺の江戸城外堀(弁慶堀)なお、明治5年(1872)に門が撤去された。
また、赤坂見附御門石垣から国道246号沿いに外堀(弁慶堀)に沿って歩き、弁慶橋を渡ってすぐの場所に紀伊和歌山藩邸址碑がある。ここからが紀尾井町となる。