千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園
幼稚園敷地内にある土塁ネット検索しても十中八九、「遺構は消滅」とされているが、ある1件のサイトだけが写真入りでこの遺構を紹介していた。場所はわだ幼稚園の敷地内、園舎の裏にある土塁である。
幼稚園入口付近から見た土塁見学を申し込むと快諾をいただき、早速、送迎バス車庫の裏にある土塁の石段を登る。
土塁の石段 土塁の上に到着すると、稲荷神社の祠と宝篋印塔などの墓石群がある。
土塁の頂上部 稲荷社の祠墓石群(左は伝 和田義盛墓・中央は明應九年板碑)墓石群の最前列左にある和田義盛墓と伝わる宝篋印塔には、和田氏を表す梵字が刻まれている。また、中央の板碑には「明應九年」(1500年)の銘がある。和田義盛とは全く年代が合わない室町中期にあたるが、実はこれより7年前の延徳5年(1493)に、この城で合戦があり、城主 豊島次郎左衛門ほか諸人が討死にした、と「本土寺過去帳」に記載がある。豊島氏ということは、ここからほどなくの栄橋を渡った利根川の対岸、茨城県北相馬郡利根町の布川城主の一族が勢力拡大を図ったものと推察される。
また、天正元年(1573)、北条氏堯・氏照ら6,000余の軍勢が我孫子周辺に侵攻すると、時の城主 豊島半之允は芝原城主の河村山城守、柴崎城主の荒木三河守らと連合して2,000余の軍勢で迎撃したが敗れる。この戦いで北条軍は我孫子連合軍の首級270余りを討ち取ったという。
さらに、天正13年(1585)田部主水が城主の時、豊島頼継(下総布川城主)・栗林義長らに攻められたという説もある。