侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

浄真寺(茨城県土浦市)

茨城県土浦市立田町3丁目 光照山浄真寺

藤井松平信一供養塔(浄真院弁誉道雄専水大居士)f:id:shinsaku1234t501:20170226151303j:image十八松平の一つ、藤井松平家出身である。藤井松平利長の嫡男で一貫して徳川家康の家臣を貫く。ちなみに、家康の祖父清康とは従兄弟にあたるが、年齢的には家康より4歳だけ年長にあたる。

永禄元年(1558)、尾張品野城合戦で織田勢50名あまりを討ち取る。また、三河一向一揆では左股を鉄砲で撃たれて負傷するも奮戦した。

特に有名なのは、家康の命で織田信長の援軍として派遣された永禄11年(1568)の観音寺城合戦において六角義賢・義治らの籠る近江箕作城に一番槍を果たしたことであろう。信長の覚えめでたき武将でもある。また、この出陣に際して家康から拝領した具足は木菟(みみずく)をモチーフとした変わり兜として有名である。

「八月、織田信長、西のかた近江を略し、来つて援兵を乞ふ。大夫、松平信一をして、二千余人を以て往かしむ。信長の将木下秀吉ら、箕作城を攻む。城固くして抜けず。信一疾く攻め、矢石を冒して進み、大に呼んで曰く、「三河の人松平信一、先登せり」と。諸隊継ぎ登る。城遂に陥る。信長、面のあたり信一を褒めて曰く、「卿、胆に毛を生ずと謂ふべし」と。桐号の胴服を賜ふ。」(日本外史

その後も家康の主要な合戦に従軍し、関東移封に際しては下総布川5千石を賜る。関ヶ原合戦では佐竹義宣を牽制すべく常陸江戸崎城を守備し、その功により常陸土浦3万5千石を賜る。

慶長9年(1604)、養子の信吉に家督を譲り、寛永元年(1624)、信吉の封地である丹波篠山にて没す。

光照山浄真寺という寺号は、光照院(信吉)と浄真院(信一)の法号に由来する。もっとも、本墓は京都府京都市上京区西熊町 称念寺である。

三河松平家の苦難の時代から家康を支え続けた武功派の印象を感じる。また、関ヶ原合戦後に佐竹氏を除封した常陸方面は治安が不安定な部分もあったので橋頭堡的な役割を担ったのであろう。

浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151424j:image浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151547j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013911p:image