侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

私論「下剋上・下克上」その3

南北朝時代の政情不安の中で成立した室町幕府は、成立当初から守護大名の圧力を受け続けた。強烈なまでの独裁で君臨した3代将軍の足利義満がいる一方で、6代将軍の足利義教・管領にして「半将軍」の名を恣にした細川政元でさえ「下剋上・下克上」に斃れた。…

私論「下剋上・下克上」その2

⚫️平清盛や後醍醐天皇のように自身が政治をおこなうスタイルではなく、側近による政治機構を確立した。頼朝を始め鎌倉将軍家による独裁が思うように許されなかった反面、ブレーンによる権力掌握が活発化したと言える。有力御家人による合議制と言えば聞こえ…

私論「下剋上・下克上」その1

以下は「広辞苑」の記載内容である。 げ‐こく‐じょう【下剋上・下克上】 (「下、上に剋かつ」の意)下位の者が、上位の者の地位や権力をおかすこと。南北朝時代からの下層階級台頭の社会風潮をいい、室町中期から戦国時代にかけて特に激しくなった。太平記2…

中条氏館(埼玉県熊谷市)

埼玉県熊谷市上中条 龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館址長承元年(1132)、武蔵判官こと藤原常光が国司として中条の地に下向し、居住した館址である。 龍智山毘慮遮那寺常光院 藤原常光墓その孫と伝わる家長は源平合戦を経て鎌倉幕府の評定衆にも名を連ね、…

小牧長久手戦跡 草井の渡し(愛知県江南市)

愛知県江南市草井 承久3年(1221)、承久の乱に際して鎌倉幕府軍が尾張から美濃に侵攻した。この時、北条泰時率いる幕府軍は尾張国一宮こと真清田神社(愛知県一宮市真清田)に布陣する。 6月6日、北条時氏・有時ら率いる幕府軍は尾張草井の渡しから木曽川対…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その8

歴史愛好家の中には、「明治2年の段階で高杉が生きていれば脱隊騒動の展開は違っていたのでは」と考える向きもあるとは思うが、果たして西南戦争における西郷隆盛の如く諸隊に与したかどうかは疑問である。確かに高杉が奇兵隊を創ったとは言えるが、彼自身が…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その7

悲劇はなおも続く。苛烈な処分を以って脱隊騒動を鎮圧した木戸孝允のやり方に異論を唱える前原一誠が9月2日、兵部大輔を辞職して明治政府を下野した。 そして、明治9年(1876)、旧脱隊兵や旧干城隊士を含む殉国軍を率いて彼が挙兵したのが萩の乱である。脱…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その6

まず、第二次長州征伐の際に占領した豊前企救郡(現在の福岡県北九州市・行橋市)と石見浜田藩領(現在の島根県浜田市)を朝廷の命に従い返還することとなった。すなわち、山口藩の領土が減少するからには、兵士のリストラを図らなければならない。 さらに、…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その5

これは高杉の最も怖れるところであった。というのは、奇兵隊結成から3ヶ月後の文久3年(1863)8月16日、奇兵隊と先鋒隊(のちの撰鋒隊)の間で小規模な武力衝突(教法寺事件)が発生したことで、高杉は監督責任を感じて切腹を申し出た。その結果、結成わずか…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その4

ここで問題だが、自身の生き様としては誇り高き武士に固執し、妻にも「士之女房」の教養を押し付けるほどの彼が、一方では武士以外の身分層に期待するような軍隊を結成したというのはどうにも矛盾しているのである。後年、怒りのあまり赤禰武人(奇兵隊三代…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その3

そこで、高杉は敗戦の中で際立った奮戦を見せた久坂玄瑞らの光明寺党(森俊斎こと、公家の中山忠光を擁立して下関の光明寺で結成した義勇軍)にヒントを得て、広く身分を問わない志願兵による軍隊の創設を藩に上申したのである。 「馬関のことは臣に任ぜよ。…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その2

この論法からすれば、上海に渡航してイギリスによる植民地政策の何たるかに触れた経験を持つ高杉が、時代の変革を模索しても肝心の長州藩が動くはずはない。かといって、独りでできることはせいぜい反対論者の暗殺程度であって大局を揺るがすには及ばない。…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その1

憂国・攘夷の実を思うように達せられないことに悩んでいた高杉晋作は、文久3年(1863)3月15日、長州藩京都藩邸にて10年間の賜暇を願い出た。さらに、翌日には剃髪して「東行」と号す。 「我こそは長州毛利家恩顧の臣」と豪語してやまない高杉がその気持ちと…

内藤家長と佐貫城(千葉県富津市)

千葉県富津市佐貫 天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の江戸お討ち入りにより、内藤弥次右衛門家長が上総天羽郡佐貫2万石で入封した平山城である。 佐貫城址大手口応仁年間(1467〜1469)に武田義広が築城したことに始まったとされ、真里谷武田家・安…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その4

しかし、これほどの隆盛を極めた上林家も春松家を除いて明治以降は廃業せざるをえない状況に追い込まれた。 その一番の理由は江戸幕府という最大の顧客を失ったことに他ならない。さらに、明治初期には1,300ヘクタールほどあった宇治近辺の茶畑が、平成の頃…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その3

結果、長男の掃部丞久茂・四男の越前守政重ら兄弟による武功は、上林家の地位を決定的なものにした。というのも、天領(幕府直轄地)となった宇治には代官所が設置され、久茂の血統である上林六郎家(上の上林家・峯順家)と政重の血統からなる上林又兵衛家…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その2

一方、天正12年(1584)、末弟の政重は小牧長久手合戦に従軍し、家康から感状を賜るほどの戦功を挙げた。 愛知県長久手市岩作色金 色金山歴史公園 徳川家康床机石ともかくも、その後、上林家は秀吉の下においても宇治茶を栽培し続け、茶の湯文化の一翼を担う…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その1

天正10年(1582)6月2日、泉州堺を出発した徳川家康一行は京都を目指すが、茶屋四郎次郎から本能寺の変報を受けて、一路三河への脱出を敢行することになる。この時、山城宇治在住の上林久茂(かんばやしひさもち)なる者が、家康一行を手引きしたとされる。 …

寛永寺(東京都台東区)

東京都台東区上野桜木 寛永寺円頓院そのものについては語るまでもない。西の比叡山に倣って、東の比叡山ということで東叡山と号す。往時36箇所あった子院は19箇所となり、うち15箇所がこの地域に現存する。もとは藤堂高虎(伊勢津32万3千石)や津軽信枚(陸…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その8

その後、世論を巻き込んで湧き上がった旧赤穂家臣への同情論のさなか、佐藤直方(朱子学者)や太宰春台(朱子学者)、荻生徂徠(柳沢吉保家臣)らが処罰論を展開したのは有名である。 それらに共通するのは、浅野長矩が切腹に処せられた直接の罪状は吉良義央…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その7

そして、大石自身、何もなければ平穏な人生を歩めたはずが、赤穂藩に、しかも家老の家柄に、いやもっと言えば武士に生まれてしまった自分の人生をどこか悔やむような思いがあったのではないか。 東京都港区高輪 萬松山泉岳寺 大石良雄墓「あらたのし 思ひは…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その6

五十人にも満たない兵力で挑む、この戦いをことさら有利に展開するため、彼らはさまざまな演出を凝らしていた可能性がある。近隣邸・部外者に対しては、討ち入りの挨拶・火気の始末など、実にあっぱれな仕儀を見せ、結果的に旧赤穂家臣に寄せる同情や人気は…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その5

しかし、浅野長広を擁したお家再興が潰えた時、彼の中から一抹の期待さえもが奪われた。生への執着を捨てなければならない決断の瞬間でもある。元筆頭家老として、また同志盟約の長として、もっとも避けたかった方向に進まざるをえない。筆舌に尽くしがたい…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その4

冷静に考えれば、将軍生母桂昌院の栄誉に関わる式典という場所柄もわきまえず、主君浅野長矩が刃傷に及んだ以上、将軍家の怒りは尤もであり、お家再興など極めて難しい。 願わくば、長矩の弟、長広が小さくでもお家を残すことさえできれば、これ幸いである。…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その3

実際、当時の大石の胸中は複雑極まりないものだったと推察される。例えば、赤穂藩改易が決定した時、大石がまず藩札の交換整理に着手している、という事実は、彼が誰よりも早く「お取り潰し」という現実を冷静に受け止めていた証拠となる。時代劇などでは、…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その2

愛知県西尾市吉良町岡山山王山 片岡山華蔵寺 吉良義央墓そこで、また疑問に思うことがある。大石良雄の本当の狙いは吉良の首にあらず、片手落ちな裁決を下した幕府に対する挑戦だという、いかにもエンタテインメント的な味付けである。 果たして、そうだろう…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その1

時代劇の定番にして、出尽くした感が強い「忠臣蔵」。 浅野側を「善玉」・吉良側を「悪玉」とした明確な勧善懲悪設定のもとで、討ち入った赤穂義士には毎回喝采が沸き起こる。 そもそも、この有名なストーリーは歌舞伎を上演するにあたり、幕府の目を憚って…

没落の前田利昌

前田利昌は、嫡男の利久をはじめ利玄・安勝・利家・良之・秀継などの男子に恵まれる。中でも、四男の利家と五男の佐脇良之は織田信長の家中で出色の人物と言える。 愛知県名古屋市中川区荒子4丁目 冨士大権現天満天神宮 荒子城址(前田利家卿誕生之遺址碑)…

勃興の前田利昌

前田利家は言わずと知れた加賀・能登の太守だが、その出身地は尾張海東郡(愛知県名古屋市中川区)である。正確な誕生地については、父利昌が天文年間まで居住していたとされる前田城、移住先の荒子城と2つの説が存在する。 出自も利仁流藤原氏を祖とする説…

臼井城 後編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園 こうして、永らく臼井氏の居城だった臼井城は千葉胤富の家臣、原氏の時代を迎える。 しかし、永禄9年(1566)3月20日、上杉輝虎の関東出兵に従う結城晴朝・酒井胤治ら、さらに呼応した里見義堯・里見義弘らの大軍に四方を包…