侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

安土桃山

豊臣家臣団 その11

8月23日、大垣城から岐阜城への援軍が出撃した場合に備えて後詰していた黒田長政・藤堂高虎・田中吉政らが岐阜城下に到着すると、もはや落城の様相を呈していた。 岐阜県岐阜市金華山天守閣 岐阜城復興天守そこで、手柄を求める彼らは独断で大垣城目指して進…

豊臣家臣団 その10

こうして、家康が武断派を上手く自陣営に取り込み、三成ら文治派への憎悪の念を利用した結果、村越直吉の一言に奮起した東軍は、8月21日に上流隊と下流隊の二手に分かれて清洲城を出陣することになった。 池田照政・その実弟の羽柴長吉(のちの池田長吉)・…

豊臣家臣団 その9

8月19日、家康の命で村越直吉が清洲城に到着した。江戸城に腰を落ち着けて出陣する気配すらない家康に不満を抱く諸将からの抗議に対して「敵方と戦端を開けば、江戸を出馬するだろう」と言い放った。 「茂助申し候は、御出馬有るまじくにてはなく候えども、…

豊臣家臣団 その8

「打倒三成」を合言葉に熱量を帯びた東軍に引き換え、密かに家康に通じる増田長盛・いきがかりで西軍に属すことになった島津義弘・家中分裂の後味が悪い宇喜多秀家・一族の意見統一が図られない毛利輝元、調略の手が深く入り込んだ小早川秀秋(のちの小早川…

豊臣家臣団 その7

また、三成は督戦という形で伏見城攻撃に姿を現しただけで、丹後田辺城・伊勢松坂城・同安濃津城・近江大津城などの攻城戦には関わっていない。そこには重要な共通点があるように思われる。 伏見城は鳥居元忠はじめ家康家臣が相手であるが、他の城はいずれも…

豊臣家臣団 その6

そもそも、豊臣家の一奉行でしかなかった三成が、毛利家や島津家の上に立って西軍を指揮するカリスマにはなれるはずもない。彼は豊臣家の忠実な吏僚の立場で誰よりも家康を警戒するがゆえに手を組むことを許さなかっただけである。 本来、石田三成・長束正家…

豊臣家臣団 その5

また、家康の密命を受けた柳生宗矩が、同じ大和出身の嶋清興(石田三成家臣)を調略すべく訪問した時の会話も「常山紀談」に所収されている。嶋左近は三成について語った。 「然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。既に時を失ひぬ。能々世…

豊臣家臣団 その4

「総ての堀を埋めて裸城にすれば、大坂城は落城する」と、生前の秀吉が家康ら諸大名に語った逸話がある。確かに、後年その通りになるのだが、まるで自分の死後、誰も大坂城を落城に追い込むとは思っていなかったような言い回しである。もはや天下が覆るはず…

豊臣家臣団 その3

長年、羽柴家の外交面を主に務めた蜂須賀家は正勝没後、嫡男家政の代になると阿波徳島の一大名となり、軍師の黒田孝高も豊後中津の一大名に収まり、さらに名補佐役として名高い大納言秀長が病没、前野長康や木村重茲・明石則実・渡瀬繁詮らに至っては秀次事…

豊臣家臣団 その2

さらに、積極的に仕掛けていった引き抜きや改易した大名家旧臣の直臣化により、下記の家臣を得た。 【斎藤龍興旧臣】加藤光泰 【明智光秀旧臣】木村吉清・平塚為広 【柴田勝豊旧臣】小川祐忠 【丹羽長秀旧臣】長束正家・桑山重晴・太田牛一・戸田勝成・上田…

豊臣家臣団 その1

織田信長や徳川家康はもちろんのこと、ほとんどの戦国武将には代々仕える譜代家臣が存在した。平時には主家の家政に従事し、戦時には参陣して身を以って忠誠を尽くす存在である。ただ、出自明らかではない木下藤吉郎には当然、生まれもっての家臣はいない。…

石田堤(埼玉県行田市〜鴻巣市)

最初は忍城に力攻めを仕掛けたが撃退され、のち方針を変更して豊臣秀吉を真似た水攻めをしたものの、開城に至らなかった。すなわち、石田三成は戦下手というのが通説だが、資料によると、悉く逆のようである。 埼玉県行田市佐間 さきたま古墳公園に現存する…

浄真寺(茨城県土浦市)

茨城県土浦市立田町3丁目 光照山浄真寺 藤井松平信一供養塔(浄真院弁誉道雄専水大居士)十八松平の一つ、藤井松平家出身である。藤井松平利長の嫡男で一貫して徳川家康の家臣を貫く。ちなみに、家康の祖父清康とは従兄弟にあたるが、年齢的には家康より4歳…

小牧長久手戦跡 野呂塚(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒前川原 野呂塚 野呂塚羽黒城址から少し離れた場所に、羽黒八幡林古戦場がある。写真の塚は羽黒小学校や羽黒八幡宮の東にある。 八幡林古戦場と野呂塚説明板天正12年(1584)、犬山城の羽柴秀吉軍と小牧山城の織田信雄・徳川家康連合軍の睨み…