侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

安土桃山

相応院を巡る人々 後編

一方、於亀の方の二番目の夫であった石川光元は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、翌年死去する。残された於亀との間の子 光忠は慶長13年(1608年)、徳川家康に召し出される。慶長15年(1610)には美濃や摂津など計1万300石の知行を賜り、慶長17年(…

相応院を巡る人々 前編

徳川家康の側室、のちの相応院は石清水八幡宮の祠官 志水宗清の娘である。名は於亀と伝わる。 天正19年(1591)、最初に嫁いだ竹腰正時との間に万丸(のちの竹腰正信)を設ける。正時という人物については別名もあり、はっきりとしない部分が多いが、斎藤道…

小牧長久手戦跡 蟹江城 後編(愛知県海部郡蟹江町)

後世、武将としての資質や実績を比較すると、家康が秀吉よりも優っていたと断じられる根拠として、小牧長久手の戦いがまず挙げられる。やむを得ない。家康と秀吉が直接対決したのは、小牧長久手の戦いしかないのだから、この一連の中で判断しがちであること…

小牧長久手戦跡 蟹江城 中編(愛知県海部郡蟹江町)

そして、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いは双方睨み合いの状態にあった。6月15日、滝川一益・九鬼嘉隆ら羽柴秀吉軍の水軍数十艘3,000の兵が伊勢白子(三重県鈴鹿市白子町)を発し、16日早朝には蟹江沖に姿を見せた。 迎え撃つ織田信雄軍の蟹江城主 佐久…

小牧長久手戦跡 蟹江城 前編(愛知県海部郡蟹江町)

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 中先代の乱ののち、南朝に属して足利氏に抵抗を続けていた北条時行が、正平8年・文和2年(1353)に処刑された。その後、次男 平太郎時満の子、平五郎時任が尾張西部に蟹江城を築城したとされる。永享年間(1429〜1440)のことと伝…

小牧長久手戦跡 青塚砦(愛知県犬山市)

愛知県犬山市青塚 尾張国の二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)の祭神 大荒田命(おおあらたのみこと)の墓とされる古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳である。 その墳丘の全長は123メートル、後円部の高さは12メートルの規模を誇り、愛知県では断夫山古墳…

小牧長久手戦跡 草井の渡し(愛知県江南市)

愛知県江南市草井 承久3年(1221)、承久の乱に際して鎌倉幕府軍が尾張から美濃に侵攻した。この時、北条泰時率いる幕府軍は尾張国一宮こと真清田神社(愛知県一宮市真清田)に布陣する。 6月6日、北条時氏・有時ら率いる幕府軍は尾張草井の渡しから木曽川対…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その2

一方、天正12年(1584)、末弟の政重は小牧長久手合戦に従軍し、家康から感状を賜るほどの戦功を挙げた。 愛知県長久手市岩作色金 色金山歴史公園 徳川家康床机石ともかくも、その後、上林家は秀吉の下においても宇治茶を栽培し続け、茶の湯文化の一翼を担う…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その1

天正10年(1582)6月2日、泉州堺を出発した徳川家康一行は京都を目指すが、茶屋四郎次郎から本能寺の変報を受けて、一路三河への脱出を敢行することになる。この時、山城宇治在住の上林久茂(かんばやしひさもち)なる者が、家康一行を手引きしたとされる。 …

没落の前田利昌

前田利昌は、嫡男の利久をはじめ利玄・安勝・利家・良之・秀継などの男子に恵まれる。中でも、四男の利家と五男の佐脇良之は織田信長の家中で出色の人物と言える。 愛知県名古屋市中川区荒子4丁目 冨士大権現天満天神宮 荒子城址(前田利家卿誕生之遺址碑)…

勃興の前田利昌

前田利家は言わずと知れた加賀・能登の太守だが、その出身地は尾張海東郡(愛知県名古屋市中川区)である。正確な誕生地については、父利昌が天文年間まで居住していたとされる前田城、移住先の荒子城と2つの説が存在する。 出自も利仁流藤原氏を祖とする説…

豊臣家臣団 その30

大坂夏の陣の後日譚として、直後におこなわれた京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)破却が挙げられる。 後水尾天皇の勅許を得た家康は「正一位豊国大明神」という吉田神道の神号を剥奪したのみならず、神社及び豊国廟の破却に乗り出した。 滋賀県長浜市早崎…

豊臣家臣団 その29

そもそも、合戦や戦争はどちらも正義を主張して譲らないからこそ発生するものである。どちらかだけに絶対的正義があるという事例などほぼ無い。逆説的に言えることは、豊臣家臣団の盛衰を的確に把握するためには、むしろ敵方の家康、もしくは彼に与した豊臣…

豊臣家臣団 その28

さて、同時代を生きた徳川家康だが、ただ座っていたら棚からぼた餅が落ちてきたわけではない。信長との同盟を堅守し、信玄とともに旧主今川家を滅ぼし、秀吉に楯突くことなく常に支え、豊臣家を滅ぼしたのちに朝廷・公家・寺社までも制した。そこには、忠義…

豊臣家臣団 その27

その一方で、対する家康は実に汚い手段や権謀術数を用いてまで、着々と「存続しうる家」を作っていったのである。家康には、ありとあらゆる手を使って天下を簒奪したという悪いイメージが根強いが、それは裏を返せば乱世を統一するに必要な政略を有していた…

豊臣家臣団 その26

では、大坂方はどうあるべきだったのか。これはあくまでも私見である。 確かに、堅固な城郭と豊富な蓄財、天下人太閤秀吉というブランド力を頼りにするから、たとえ幕府を開いたとはいえ、徳川家とは別格の位置、いやむしろ上席の待遇にあって然るべしと考え…

豊臣家臣団 その25

しかし、これらの事実が、ともすると片桐且元の徳川内通説や織田有楽斎の徳川スパイ説となるのは、史料や彼らの立ち位置に基づいていないがゆえ、いささか本人たちが気の毒にさえ思える。むしろ、彼らこそお家存続の落とし所を探っていた最後の豊臣恩顧だっ…

豊臣家臣団 その24

また、淀殿の後見役として徳川家との和平を第一に考えていた慎重論者の織田長益こと有楽斎でさえ、夏の陣に突入していく主戦論の高まりの中で「もはや城内の誰も自分の意見を聞かない」と報告することで、家康の許可を得て大坂城を退去した。 家康の許可を得…

豊臣家臣団 その23

例えば、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が発生すると、釈明のため駿府に派遣された且元は家康に拝謁を許されず、後から派遣された大蔵卿が家康に歓待されたという有名なエピソードがある。ここだけ見ると、且元が交渉相手として軽く見られ、大蔵卿のほう…

豊臣家臣団 その22

さらには、豊臣家にあってもその踏み絵を踏んだ人物が2人いる。 徳川家の傘の下で豊臣家を存続すべく奔走し続けた片桐且元は、大坂方から裏切者として命を狙われた挙句、幕府軍に加わった。大坂冬の陣では三浦按針経由で幕府が入手した最新鋭の英国製カルバ…

豊臣家臣団 その21

唯一、馳せ参じた豊臣恩顧の動きを紹介するならば、増田長盛・盛次父子と言えるかもしれない。 愛知県稲沢市増田南町 八幡社 増田長盛邸址碑関ヶ原合戦において西軍に属したため、増田家は改易となり、長盛は高野山での蟄居を経て武蔵岩槻に配流、長男で庶子…

豊臣家臣団 その20

また、関ヶ原合戦で西軍寄りの動きをした蜂須賀家政に至っては、大坂方からの勧誘の使者に対して「無二の関東方」と称して断り、家康にその密書を提出するほどの旗幟鮮明ぶりを見せる。 薩摩の島津家久にしても大野治長から3回にわたって同心を要請されたが…

豊臣家臣団 その19

関ヶ原合戦からわずか3ヶ月後の12月19日、家康は以前に関白を歴任したことのある九条兼孝の関白再任を奏上した。秀吉・秀次と続いた豊臣家の関白職世襲のような雰囲気を打ち消す目的かもしれない。同時に、関ヶ原の勝者 家康が朝廷の任官において発言力を持…

豊臣家臣団 その18

【藤堂高虎】徳川家との血縁はないが、秀吉の生前から家康に接近していたことで、譜代大名に準ずる扱いを受けたのは有名である。秀忠の代になっても徳川家の忠誠は揺るがず、元和5年(1619)、徳川和子入内に関する「およつ御寮人事件」では徳川家の使者とし…

豊臣家臣団 その17

ここで、江戸初期における諸大名と徳川家の関係を列記する。 【福島正則】慶長4年(1599)、養子の正之が家康養女を娶る。また、正則も慶長9年(1604)、家康養女を継室に娶る。豊臣姓を名乗り、慶長16年(1611)、家康と秀頼の二条城会見を仲介したが、当日…

豊臣家臣団 その16

本戦において西軍の有力大名である毛利・島津・長宗我部らがほぼ動かず、宇喜多秀家や三成・大谷・小西らが奮戦したのに対し、東軍の主戦力も福島・浅野・黒田・長岡・藤堂など豊臣恩顧の武断派であった。西軍の三成ら文治派を制したのは、東軍に属した武断…

豊臣家臣団 その15

ともかくも、秀秋の参戦にさらなる勢いをつけたのが、松尾山麓に布陣していた脇坂安治である。本来は家康に従って会津上杉討伐に出陣するところを三成に阻まれてやむを得ず西軍に属した脇坂は、当初から山岡景友を通じて家康に弁明し、藤堂高虎を窓口として…

豊臣家臣団 その14

前項でも述べた通り、西軍は尾張・三河の国境どころか、東濃から中濃まで制圧され、家康が大垣城を間近に見据える赤坂に本陣を構えたことで、西濃への進軍も許した。そして、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発した。 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関…

豊臣家臣団 その13

もう少し史料などを参考にしながら、戦場が関ヶ原になった経緯を紹介する。 ⚫️「大垣は城塁壮固、兵食皆足る。秀家少しと雖も暗者に非ざるなり。而して義弘・行長・正家・吉隆、心を一にし力を戮せて持重して出でず。これを攻むれば必ず我が兵を損ぜん。独り…

豊臣家臣団 その12

西軍の軍議において岡山本陣の襲撃が取り沙汰されていることを知ってか知らずか、家康は三成の居城 佐和山城の攻撃を決定する。不思議なことに、東軍によるこの佐和山城攻撃計画がいち早く三成の耳に入り、午後7時には大垣城を出陣することになる。いわば、…